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メルマガでも取り上げたのですが、もう少し考えを進めておきたいと思ったので、このブログにまとめておきます(注)。
社会学者チャールズ・ホートン・クーリーが提唱した概念に「第一次集団(primary group)」というものがあります。これは、家族や親友といった親密な人間関係のことを指している言葉で、この「第一次集団」においては、オープンな関係性をベースとして信頼感や安心感を築くことが目的になっています。 これに対して、特定の利害を共有したり、なんらかの社会的な目標を達成することを目的としたりして、人為的・意図的に形成された集団を特に「第二次集団(secondary group)」と言います。いわゆる会社組織はこれに当たりますね。 個人にとって「第一次集団」は、個人がどういった帰属先を持っているのかを示しています。そのため、これが個人のアイデンティティーの基盤ともなります。それだけでなく、「第一次週第」の人間関係がどれくらい良好なものになっているかによって、そうした集団の外部にあるとき、つまりは「第二次集団」にあるときのストレス耐性が決まるようなのです。 まあ、あまり難しく考えなくても、家族や親友と密接で温かい関係が築けている人は、その外で多少の失敗をしても(アムロのように)「帰れる場所」があるわけで、あまり心配がないわけです。 失敗しても大丈夫という心理状態は、ストレスを受けたときに、それを押し返す力になるでしょう。実際、他者から心理的支援を受けている人は、たとえば病気からの回復が早いといったことが認められているようです。 近年、厳しさを増す社会情勢の中で、ストレス耐性の重要性が語られることが多くなっているように思います。その背景には、一般的に「第一次集団」内部での人間関係が弱体化しているということがあるのではないか、なんていうことを考えてしまうのです。 「最近、風邪をひきやすくなったな」とか「疲れが取れないな」とか思っている方がいたら、その最善の解決策は(1)久しぶりに親に連絡をして食事にでも行く(2)久しぶりに親友と連絡を取って食事にでも行く(3)たまには休暇を取って家族と旅行に行く、といった人間らしいウェットなことかもしれません。 (今晩は、一時帰国中の友人との会食です!) (注)本稿執筆で主に参考としているのは 増子由美子『社会福祉におけるサポートの今日的問題点』, 哲學 83, 173-198, 1986-11-00, 慶應義塾大学 です。気になったかたは、そちらも当たってみてください。 ホヤの照明@気仙沼 ![]() ●無料メルマガ『人材育成を考える』もよろしくお願いします。 ●twitterもやってます:http://twitter.com/joesakai #
by ned-wlt
| 2013-06-02 12:08
| ちょっぴり経営学
今日、ある優秀な営業マンから聞いた話に感動しました。
営業マンは、まず自分に営業しないといけないそうです。自分がかついで売る商材は、顧客よりも先に、まずは自分に売りこむということです。ここで商材の優位性に自分自身が納得いかない場合は、顧客にそれを売ることはできないということです。 この話をしてくれた直後、その営業マンは「そして・・・」と言葉をついでから、彼の大切なノウハウを教えてくれたのです。 そうした自分自身への営業は、毎朝、ベッドで目覚めた自分自身に対して行うべきだそうです。顧客も競合も変化するので、営業として常に高い成績を出すためには、日々自分自身を納得させる必要があると、そういう意味なのでしょう。 朝から「今日一日をしっかりと過ごす」と決めてから動くと、調子が良いですよね。逆に、朝から前の晩の状態を引きずっていて「疲れてるなー」みたいな感じでいると、立ち上がりが遅くなって、その一日の全てがイマイチだったりします。極端に言うなら、朝からしっかり自分自身と向き合うと、人生が変わるということです。 営業マンではない僕は、商材を自分に売り込むかわりに、今日という日が、自分の残りの人生において「最も若い日」であることを自分に言い聞かせたいと思います。それから、その残りの人生で何を成し遂げたいかを再確認し、今日が、それを実現する長旅の「第1日目」であるという気持ちを作ります。明日の朝から! (がんばろー!) ラーメン! ![]() ●無料メルマガ『人材育成を考える』もよろしくお願いします。 ●twitterもやってます:http://twitter.com/joesakai #
by ned-wlt
| 2013-05-17 00:36
| ちょっぴり経営学
誰もがいつか「人生の終わり」を迎えます。そのとき人は、自分の人生を振り返り、色々と思い出すことになるでしょう。
思い出すのはきっと喜怒哀楽の感情、すなわち心が大きく動かされたことだと思います。できればそれらは、死ぬほど笑った経験だと嬉しいです。 僕の人生にも、いくつか、死ぬほど笑った大切な記憶があります。そして昨晩また1つ、その記憶が増えました。それを振り返りつつ、人が死ぬほど笑うための条件を、ここに整理しておきたいと思います。 1.充実をともなう疲労を抱えていること 疲労によって思考レベルが下がっている、判断力が弱まっている必要があると思います。疲労によって思考が止まると、人はこの世界を「頭」ではなくて「心」で観察するようになるからです。 このせいで、普段はなにも感じないようなことが、いちいち心を揺さぶるようになります。感情が覚醒し、まるでこの世界が、喜怒哀楽だけでできているかのような感覚にとらわれます。 このときの疲労は、なんでも良いというわけでもなさそうです。「何かを成しとげた」という充実感を背景にしているとき、それは「笑い」につながると思います。ですが充実感を背景にしていないと、それは「涙」になりそうな気がします。 2.信頼できる人々とともにあること 笑い転げるということは、とても無防備になることです。もはや虚勢をはる必要がない、何かを競っているわけでもない人々でないと、無防備な自分をさらけだすための「安心感」が得られないでしょう。 逆に言えば、無防備でカッコ悪い自分を見せることができるということが、人を信頼するということなのかもしれません。疑い深い人のほうが失敗は少ないでしょうが、そのぶんだけ死ぬほど笑う経験が得られにくいという大きなマイナスがありそうです。 そして笑いがピークになるためには、自分以外の誰かが笑っているのを見る必要があると思います。笑いは伝染し、らせん階段を登るようにして、止められない笑いに向かっていくからです。 3.自らを笑いのネタにできるピエロが存在すること 自分を笑ってもらうことに喜びを感じる人というのは、人類の宝だと思います。ボケとツッコミであれば、ボケのほうがずっと価値が高いと、個人的には思います。 過去『人に笑われる喜び。』というエントリでも書きましたが、自分が人に笑われること、自分が人を笑わせることは、周囲を明るく元気にします。 また、誰かが人を笑わせようとしているときは、その心意気を「ありがたいもの」としながら、積極的に楽しもうとする態度を示せることが「社交性」のエッセンスでしょう。 ●言いたいこと こうして振り返ってみると、ランニングや登山のサークル、NPOや地域社会貢献活動が人になにを与えているのかが見えてきます。そして理想的には、これを普段の仕事の中にこそ得たいわけです。 この週末、僕は、経営がなにを目指すのか、そこに集う社員たちの期待に応えるとはどういうことなのかを考えるヒントを得たような、そんな気がしています。 人は1人では生きられません。仮に、人生の本質が「孤独」であるにせよ、人は「孤独が消滅してしまう瞬間」を味わうことができます。これを認識していれば、人は「孤独」を怖がらないようになると思うのです。 桜咲く気仙沼にて ![]() ●無料メルマガ『人材育成を考える』もよろしくお願いします。 ●twitterもやってます:http://twitter.com/joesakai #
by ned-wlt
| 2013-04-29 13:03
| 時事評論のまね
今から5年ほど前、梅田望夫さんの「自分より年上の人に会わない」という宣言に出会いました。それ以来、僕の中で何かが変わったという実感があります。実際、今、僕の「仲間」と言える人の多くは年下です(いや、例外はありますよ)。べつに先輩風を吹かせたいからではありません。単に、そのほうが面白いからです。
あれから5年、そんな状況にはあまり疑問を抱かずに過ごしてきました。でも最近、ちょっと気がついたことがあります。それは、なぜ今、年上であることのアドバンテージが失われつつあるのかということです。 考えてみたのは「人類の歴史の中で、年上であることのアドバンテージが失われた時代は、現代以外にも存在するか」という命題です。 ●他者に対するアドバンテージの源泉 だいたいの時代において(社会階層を固定すれば)年上であるということは、それだけで価値のあることだったはずです。なぜなら年上は、豊富な人生経験をもってして、年下に有益なアドバイスができたからです。そう、普通の時代には。 安全な食べ物、安全な場所、病気への対処、子育ての方法、狩猟や漁の方法、種まきの時期、収穫の方法、踊り方、歌い方、言葉の使い方、ビジネスのやりかた・・・生きるための知恵、楽しむための知恵、そしておそらくは戦いの知恵まで含めて、人類はほとんどの時代、年上が年下に知恵を伝えてきたわけです。 他者に対するアドバンテージの源泉とは、役に立つ知恵の蓄積です。そして、人類史上においては、多くの時代、役に立つ知恵は年齢とともに増えていく傾向があったわけです(注1)。 ●年齢が不利になるとき であれば、現代のように年上であることのアドバンテージが失われる時代とは「年上である」というだけでは、有益なアドバイスができない時代ということになります。それは、次々と新しい知恵が生まれ、それによって過去の知恵が上書きされてしまうような状況下においてしか発生しないでしょう。 僕が、この条件で思いついた時代は、人類史上、言語が発明されたとき・・・それだけです。程度の問題で、農耕の発明や文字の発明などもこれにあたる可能性がありますが、レベルが違うと思います。 言語が発明(注2)される以前に生まれた人の知恵は「見よう見まね」で伝達されたはずです。これに対して、言語が発明された後に生まれている人の知恵は、言語によって伝達されたわけです(あたりまえですが)。 「見よう見まね」による知恵(暗黙値)の伝達に対して、言語による知恵の伝達(形式知)は、知恵の伝達効率が高くなります。単位時間あたりの知恵の伝達量が多いのは言語が発明された後の世代ですから、残酷なことに、言語を使える世代は、言語を使えない世代の知恵を軽々と乗り越えて行くことになったでしょう。 ●現代を考える 現代は、僕の意見では、人類史上、言語の発明に匹敵する巨大なイベントが進行している最中です。このイベントがまだ進行中であり、終着点に至っていないと結論づける根拠は、まだ生まれていない子供のほうが、既に生まれてしまっている人間よりも有利であることが疑えないことにあります。 そう言い切れるのは、ITの発展を牽引する半導体の処理能力が、まだ、理論限界に達していないからです。たとえば、満足に使える自動翻訳機や自動プログラミングマシンはまだ出現していません。時間の問題ではありますが、そうしたキラーデバイスがまだ出現していない以上、この変化はまだ終わっていないと考えるべきでしょう。 遠くない将来、高性能な自動翻訳機や自動プログラミングマシンがあたりまえに使える社会に生まれてきた子供は、それ以前の人間が苦労して体得した英会話やプログラミングのスキルなどを「まったく意味のないこと」と認識するでしょう。それでも僕たちは、英会話やプログラミングを学ばざるを得ない「今」を生きているのです。ああ、なんということでしょう! ●「ゆとり世代」なんていない! 「ゆとり世代」という言葉があります。これは、年上が年下を卑下する言葉です。でも、ここまでの話を前提とすれば、そこにいかなる名前をつけようとも、巨大な変化の時代を有利に生きられるのは年下の世代であって、年上ではありません。 「ゆとり世代」という言葉の裏にあるのは、自分がこの変化についていけないという恐怖ではないでしょうか。解らないことは怖いという、本当はそれだけのことだと思うのです。だって「ゆとり」を犠牲にして得て来たスキルが全部無駄になるなんて、誰も信じたくありませんから。 でも、今まさに、日本のお家芸だった半導体技術はコモディティー化し、東大の大学院で半導体の基礎技術を学んだ人材が、事実として職を失い、路頭に迷っているわけです。この日本には「ゆとり世代」がいるのではなくて、「ゆとりのない世代」がいるだけです。 ●この変化はいつ終わるのか 巨大な変化が続く限り(個別に世代を超えて優秀な人材がいるということを除けば)年上は年下に勝てません。では、こうした年上が尊敬できない状態、すなわち、巨大な変化は、いつまで続くのでしょう? 僕の意見では、それは2025年ぐらいまで続きます。これは、今の変化を根本で支えている半導体の技術革新が「止まる」時まで、という意味です。 今の半導体技術は、電子が走るための導線を細くして、半導体そのものを小さくしていくという発想に支えられています。特に「ムーアの法則」と呼ばれるもので、半導体の集積度は、およそ18ヶ月ごとに倍になっています。コンピュータの処理能力の発展、すなわちこの巨大な変化を支えているのは、この半導体技術なのです。 でも「ムーアの法則」には終わりがあります。なぜなら、電子が走る導線も、電子そのものに破壊されてしまう(断線が起こる)ときが来るからです。正確には「エレクトロ・マイグレーション」と呼ばれる現象で、電子の運動エネルギーによって、導線を構成する原子が、期待される特定の位置にいられないとき(物理限界)が必ず訪れます。 それ以上は導線を細くすることができないし、これまでと同じ設計思想では、もはや半導体も小さくはなりません。そこで(いったんは)コンピューターの性能の成長は(ほぼ)止まることになります。これが、僕の予測では、だいたい2025年です。 ●尊敬される老人のはじまり? 2025年以降に生まれる世代は、ただ年齢を重ねるだけで、後から生まれてくる世代よりも優れた知恵を蓄積できるはずです。これまで通りの人類史、困難はあっても将来不安の少ない、安定した時代のはじまりは、そこからでしょう。 で、今を生きている僕たちは、残念ですが、年齢を重ねることでは、生き残るためのノウハウをためこむことは全くできない時代にあります。学んだことの多くはどんどん陳腐化し、ただ生きているだけでは、あれよあれよのうちに若い世代に抜かれていくことになります。 少しでも若いほうが有利ですが、それでも、2025年以降の人類から、僕たちが年上だからということで尊敬されることは無いと思われます。だからと言って、だた一度の人生を生きる僕たちは、自分の歩みを止めることはできません。たとえ一生懸命体得したスキルが全く使い物にならなくなっても、次に求められる新しいスキルを学んでいくしかないのです。 とはいえ、悲観しても仕方がありません。どうせなら、このジェットコースターをめいいっぱい楽しみたいものですね。 (焼き肉、美味しかった!) (注1)年功序列は日本だけのことと信じられるケースもありますが、欧米であっても、年齢と賃金水準には正の相関があることが示されています(たとえば『企業経済学』小田切宏之著など)。 (注2)言語の発明がどのようになされたのかは全く解っていないし、言語は長い時間をかけてゆっくりと獲得されたとする連続性理論が正しい場合は、この例は適切ではありません。短期的に獲得されたとする非連続性理論が正しい場合のみ、この条件に当たります。余談ですが、僕は、個人的に非連続性理論を信じています。 にゃーん! ![]() ●無料メルマガ『人材育成を考える』もよろしくお願いします。 ●twitterもやってます:http://twitter.com/joesakai #
by ned-wlt
| 2013-03-28 23:27
| 時事評論のまね
本当に楽しみながら、一気に読んだ。本格的な生物学の学術書として、これだけエンターテインメント性に溢れているものも珍しい。そもそも生物学自体が面白く、個人的には結構な数の類書を読んできたつもりだが、本書『孤独なバッタが群れるとき―サバクトビバッタの相変異と大発生
まず、30代前半の研究者に、書籍執筆の機会が与えられること自体が珍しい。著者を発掘した編集者の眼力もすばらしいが、この機会をとらえて、これだけの本を書いてしまう著者の力量には、ただならぬものがある。著者はこれから、研究者としてはもちろん、ウェブ時代のタレントとして注目されていくことだろう。 本書が学術書であると同時に、高度なエンターテインメント性の実現に成功しているのは、そこに主人公である著者の苦難と成長のドラマが描かれているからだ。本書にはところどころ、いかにもウェブっぽい面白表現があり、学術書の堅苦しさを緩和する効果を発揮しているものの、本書を上質なエンターテインメントにしているのは、こうした小技ではないと思う。 主人公が苦難を乗り越えて成長していくというのは、人間の世界における(ほぼ)全ての物語に共通する黄金則である。この厳しい時代に、バッタという専門領域において博士号をとり、研究者として生きていくことは、それ自体が苦難だろう。そして、それをギリギリの高度で乗り越えていく筆者の姿が本書にはストレートに描かれている。ここに、本書のすばらしさがあるのだと思う。 自分の人生と向き合い、たとえそれが自らの生存にとって過酷な環境になる可能性が高いとわかっていても、人は自らの人生を生きるべきだ。本書は、バッタ研究という題材を通して、先の見えない時代における幸福追求のロールモデルを提供している。バッタに興味のない人であっても、本書を読めば、自分もなんらかの研究に没頭したくなるはず。 追伸:本書の執筆が終えられたときは、モーリタニア建国以来の大干ばつとなり、筆者の研究対象となるバッタが激減するという(筆者にとっては)不運の最中にあったことが書かれている。しかし、筆者のブログ『砂漠のリアルムシキング』によると、2013年3月の今は、存分に研究・活躍できる環境が整っているようだ。 (これから、少し仕事をします) ある日、ある場所、ある生物 ![]() ●無料メルマガ『人材育成を考える』もよろしくお願いします。 ●twitterもやってます:http://twitter.com/joesakai #
by ned-wlt
| 2013-03-10 22:23
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