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    <title>NED-WLT:我が家の教育論</title>
    <category domain="http://nedwlt.exblog.jp/i13/">我が家の教育論</category>
    <link>http://nedwlt.exblog.jp</link>
    <description>オランダから帰国し、日本での生活がはじまりました。twitter: joesakai</description>
    <dc:language>ja</dc:language>
    <dc:creator>NED-WLT</dc:creator>
    <dc:rights>2011</dc:rights>
    <pubDate>Mon, 07 Nov 2011 08:49:30 +0900</pubDate>
    <dc:date>2011-11-07T08:49:30+09:00</dc:date>
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      <title>NED-WLT</title>
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      <description>オランダから帰国し、日本での生活がはじまりました。twitter: joesakai</description>
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    <item>
      <title>謙虚であること、あるいは偉人伝の意味</title>
      <link>http://nedwlt.exblog.jp/17062386/</link>
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      <description><![CDATA[子育てにおいて、子供が、小さな成功体験を積み上げて、自信（＝自己肯定感）を身につけていくのは、とても大切なことだと思います。ただ、そんな小さな成功体験をもってして自慢をはじめるとすれば、問題です。<br />
<br />
その理由は簡単で、人が自分の成果を自慢するということは、その成果が自分の「到達点」であることを示してしまうからです。それが所詮は子供レベルであるにも関わらず。<br />
<br />
例えば、サッカーの県大会で優勝を目指している子供が、地区大会での優勝を自慢することはありません。全国大会の優勝を目指していて、県大会での優勝を自慢することはありません。そして、ワールドカップを目指している子供が、全国大会での優勝を自慢することはないのです。<br />
<br />
謙虚であるということは、表面的な態度の問題ではなくて、その人の目線（＝目標の高さ）の問題なのです。謙虚さを失うとき、人は周囲に、自分がちっぽけな成果に満足する人間であること（低い目標で生きていること）を伝えてしまいます。<br />
<br />
偉大な人物が、決まって謙虚なのは、彼らの目線が驚くほど高いからです。だからこそ彼らは、周囲が驚くような成果を持ってしても、それに満足することなく、歩みを止めることもないのでしょう。<br />
<br />
ですから子育てをしていて、子供が何かを自慢するとき「謙虚になりなさい」と叱るのは、少しおかしなことなのです。子供には、表面的な態度のありかたを教えるのではなくて、高い目線を持つことを教えないとならないからです。<br />
<br />
繰り返しになりますが、謙虚であることは、高い目線を持っていることを意味します。だからこそ、子供に「本当の謙虚さ」を身につけさせるのは難しいのだし、それは恐ろしく大切な教育の目的でもあるのです。<br />
<br />
子供が「偉人伝」を読まなければならない本当の理由も、ここにあります。<br />
<br />
（なんて言って、僕は謙虚じゃないなぁ・・・）<br />
火鉢<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201111/06/05/c0071305_1994997.jpg" alt="_c0071305_1994997.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>関連記事<br />
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<br />
]]></description>
      <dc:subject>我が家の教育論</dc:subject>
      <dc:creator>NED-WLT</dc:creator>
      <pubDate>Sun, 06 Nov 2011 19:11:03 +0900</pubDate>
      <dc:date>2011-11-06T19:11:03+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>教育でいちばん大切なこと？</title>
      <link>http://nedwlt.exblog.jp/16154223/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://nedwlt.exblog.jp/16154223/</guid>
      <description><![CDATA[全く同じ経験をしても、そこから偉大な発想を得られる人もいれば、何も得られない人もいます。今回の震災でも、同じようにTwitterを使っていて、そこから多くの有益な学びを得た人と、そうでない人にわかれているように見えます。この「溝」は、いかに強力な学習サポート・ツールがあっても、簡単には埋まりそうもありません。<br />
<br />
人によって、このような違いが生まれてしまう原因は、どこにあるのでしょうか。僕自身、過去のエントリ「経験の受け皿」で、一度この疑問に迫ろうとしています。当時はその原因を、経験をすくいとる「網（あみ）」としての「知識の枠組み（＝スキーマ）」としてとらえました。<br />
<br />
しかし今は、これとは少し別の視点を持ち始めています。デューイに関する本や研究書を読んでいて「経験から、より多くの果実を得るために必要なのは、教育である」ということに、自分なりに確信を得たからです。<br />
<br />
「教育」があれば、経験から得られる「意味」が増加します。木から落ちたリンゴを見て、そこから万有引力の法則を思いついた（と言われる）ニュートン。これも、ニュートンに数学や物理学の「教育」があり、より具体的には、ケプラーの法則を理解していたからでしょう。<br />
<br />
逆に言えば、このように、人間の経験の「意味」を増加させるための行為こそ「教育」なのだと思います。親、教師や指導者、人材育成担当者などが、この視点を持つことは重要です。しかし、それだけではあまりに不十分だと、今は思うのです。<br />
<br />
教育でいちばん大切なこと ― それは「教育を受ける側」が、この教育本来の意味を「体感」することだと思います。教育のあるなしが、自分の経験から得られる果実の質も量も変えてしまうことを、教育を受ける人全てが、おそらくは「痛み」を伴って理解する必要があるのです。<br />
<br />
ここで教育とは、古典的に教師と生徒の関係性の中で行われるものとするだけではありません。自分から、自分の教師とする人（ロールモデル）や書籍を選んで、そこから学ぶことも含まれます。大人の場合は、かなり意識して「自分の教育」をデザインしないと、教育のない人生になってしまうかもしれません。<br />
<br />
例えば社会人学生、特にMBA（経営学修士号）には「実務に使えない知識ばかり詰め込んで、どうなるんだ」という批判があります。この挑発的な疑問には、今の僕は「MBAでの学びは、実務から得られる経験に、大きな利息を付けてくれる」と答えます。<br />
<br />
繰り返しになりますが、人間の成長の速度を決めてしまうのが「教育」なのだと思います。つまり「よい教育」とは、経験を燃料とする成長エンジンの「燃費を鍛える」のでしょう。<br />
<br />
（なんとなく理解したつもり）<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201104/06/05/c0071305_21424024.jpg" alt="_c0071305_21424024.jpg" class="IMAGE_MID" height="361" width="500" /></center>関連記事<br />
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<br />
]]></description>
      <dc:subject>我が家の教育論</dc:subject>
      <dc:creator>NED-WLT</dc:creator>
      <pubDate>Wed, 06 Apr 2011 21:44:35 +0900</pubDate>
      <dc:date>2011-04-06T21:44:35+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>システムを組み上げ、それをコントロールする喜び</title>
      <link>http://nedwlt.exblog.jp/15669391/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://nedwlt.exblog.jp/15669391/</guid>
      <description><![CDATA[キャリア開発理論において大きな功績を残した、故ジョン・ホランド教授（ジョンズ・ホプキンス大）による「どのような子供時代をすごしたかが、その人物のパーソナリティー（なにを好きになるか）に大きな影響を与える」という指摘は、子供を育てる親にとって非常に重要なものです。<br />
<br />
将来は、様々な物事を「システム」として理解し、それを適切に「コントロール」することに喜びを感じるようになってもらいたい。これは、近代の「機械論的世界観」に基づいた考え方であり、そこには欠点もあるのですが、この発想を避けて通れないのが今の社会です。<br />
<br />
そんな、ちょっぴり複雑な願いを込めて最近、娘とラジコン（RCカー）を組み上げたのでした。もちろん、僕自身が久しぶりにラジコンを作ってみたいという気持ちもありましたが（笑）。<br />
<br />
●レバレッジ・ポイントの存在を知る<br />
<br />
いかなるシステムにも、小さな力をかけることで、システム全体に大きな変化を生み出せるポイントがあります。自然環境だって、変化させてもあまり問題にならないモノと、少しでも変化させたら大変なことになるモノがありますよね。<br />
<br />
そんなレバレッジ・ポイントをイメージとして理解するのには、加速力のあるラジコンは良い教材です。ちょっとレバーを入れれば、驚くほどの勢いで加速し、何かにぶつかったりしてパーツが壊れてしまいます。こうした体験は、子供の中に「重要な何か」を残してくれるものと思います。<br />
<br />
●逃げていくボトルネックを感じる<br />
<br />
いかなるシステムにも、全体の性能を決めてしまう「ボトルネック」があります。いかに優れたモーターを積んでいても、モーターと歯車の「かみ合わせ」が悪ければお終いです（厳密には多少の「遊び」が必要です）。また、タイヤの取り付け角度がおかしければ地面をうまくグリップしなくなりますし、そもそも直進性が悪ければ、いくら速く走れてもコントロールが難しくなります。<br />
<br />
子供に伝えたいのは、このようなボトルネックというのは1つ解消すれば、すぐに新しいボトルネックが現れるということです。「ボトルネックとの戦いには終わりがない」という印象を持たせることができれば、ラジコン代など安いものです。<br />
<br />
●物事の背景への好奇心<br />
<br />
ラジコンを外からながめるだけでは、ここを押せば前に進んで、このレバーで左右に動かすといった、表面的なことしか感じられません。しかし、そんなラジコンを組み上げた経験があれば、目に見える現象の背後には、かなり複雑な機械的なメカニズムが存在することが実感されるはずです。<br />
<br />
そうなると、次は「裏は、どうなっているのだろう？」という疑問を持って、色々な機械を分解してみるようになります（分解したっきり、元に戻せなかったりしますが・・・）。こうした活動は「物事の構造」への好奇心を育てるものと信じています。<br />
<br />
いずれ、構造への好奇心は、目に見えるものだけでなく、目に見えないものへも向けられ、最終的には「情報の編集力」にまで至ってもらいたい・・・というのは、ちょっと欲張りすぎですかね（笑）。<br />
<br />
■我が家の教育戦略： 第15条<br />
すでに「ぼんやり」と認知しているであろう「システム」という概念を固め、レバレッジ・ポイントとボトルネックの存在を感じさせつつ、あらゆるシステムの構造（機械論的世界観）への好奇心を刺激したい。<br />
<br />
ラジコン<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201012/26/05/c0071305_17442283.jpg" alt="_c0071305_17442283.jpg" class="IMAGE_MID" height="338" width="500" /></center>関連記事<br />
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      <dc:subject>我が家の教育論</dc:subject>
      <dc:creator>NED-WLT</dc:creator>
      <pubDate>Sun, 26 Dec 2010 17:48:19 +0900</pubDate>
      <dc:date>2010-12-26T17:48:19+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>人に笑われる喜び。</title>
      <link>http://nedwlt.exblog.jp/15490384/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://nedwlt.exblog.jp/15490384/</guid>
      <description><![CDATA[人間は、反論の余地のない「完璧な人」に対しては、嫉妬や警戒心は抱いても、親しみを感じることはありません。逆にこの社会では、周囲に多くの味方をつけられる「欠点だらけの凡人」が、完璧な人に勝ることがしばしば起こります。<br />
<br />
他者が笑って許してくれる自分の「欠点」は、複雑な人間関係でできている社会を上手に生きていく「武器」になります。さらに一歩進めるなら、自分の「弱点や失敗」は（もちろん、その深刻さの度合いにもよりますが）積極的に他者の笑いに変えようとするメンタリティーを養うべきだと思います。<br />
<br />
人に軽蔑されるのは嫌ですが、自分が人に笑われること、自分が人を笑わせることは、周囲を明るく元気にします。また、誰かが人を笑わせようとしているときは、その心意気を「ありがたいもの」としながら、積極的に楽しもうとする態度を示せることが「社交性」のエッセンスでしょう。<br />
<br />
今日、娘はちょっとした「失敗」をしました。娘はそれを、すかさず「ネタ」にして僕と妻を笑わせてくれました。その後、僕は上に書いたようなことを聞かせ、娘を褒めました。それに気をよくして、同じネタを何度も繰り返す娘は「ネタの賞味期限」という視点も得る必要がありますが（笑）。<br />
<br />
子供の頃はとくに、自分の存在価値を認めてくれる、利害関係のない他者に出会うことが重要です。この意味からも、娘が「自分の弱点や失敗を使って、誰かを笑わせる」というノウハウを得てくれたことは、とても嬉しいことです。<br />
<br />
■我が家の教育戦略： 第14条<br />
笑う側ではなく、笑わせる側にあることの重要性を伝えたい。誰かに「明るくしてもらう」のを待つのではなく、積極的に「明るくある」こと、そして誰かを「明るくさせる」ことに喜びを感じてもらいたい。<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201011/21/05/c0071305_1616327.jpg" alt="_c0071305_1616327.jpg" class="IMAGE_MID" height="384" width="500" /></center>関連記事<br />
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      <dc:subject>我が家の教育論</dc:subject>
      <dc:creator>NED-WLT</dc:creator>
      <pubDate>Sun, 21 Nov 2010 16:19:02 +0900</pubDate>
      <dc:date>2010-11-21T16:19:02+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>意地を通すということ</title>
      <link>http://nedwlt.exblog.jp/14704679/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://nedwlt.exblog.jp/14704679/</guid>
      <description><![CDATA[娘と、仲直りするまでに数日を要するようなケンカをしました。あることで僕が娘を叱ったところ、娘はそれを不服として「自分は悪くない」と主張しました。娘の主張にも筋が通っているところがあるし、そもそも自分の主張を守るために、ちょっとくらいの脅迫的な態度には屈しないところは、褒めてあげたいぐらいでした。<br />
<br />
子供の語彙力では大人の意見が理解できないということもあるでしょう。しかし、そもそも数学がそなえているような厳密性を、我々が日常的に使用する言語（自然言語）は持ち得ません。ですから、自分の意見と他者の意見が、どちらも「それなりの正しさ」を持ち、かつお茶を濁すということができない形でぶつかったとき、どうしても最後は「自分の意地を通す」か「相手の意見に折れる」かという局面に至ります。<br />
<br />
われわれのあらゆる認識と科学とがその上に乗って支えられている基礎は、説明不可能なものである。だから、いかなる説明も、多かれ少なかれいくつかの中間項目を通ってさかのぼりながら、結局はこの説明不可能なものにゆきつくわけである。<br />
（ショーペンハウエル『知性について』より）<br />
<br />
しかし「自分の意地を通す」と決めることは、「その結果に責任を持つ」ということと常にセットなのです。僕自身も経験してきたことですが、常に自分の主張したいところに固執するような、ただどこまでも硬いばかりの心は、結果として自分も他者も幸せにすることはありません。<br />
<br />
意地を通した結果として得たいものとはいったい何なのか、そしてそれを得る代わりに失うものは何なのか。それが解からないままに、自分の正しさばかりを主張することの危険性を、僕は娘に伝えたかったのです。結果としてそれは脅迫になってしまったのが、僕の持てる教育カードの貧弱さを示していました。しかし、現実にそれは怖いことなのです。<br />
<br />
■我が家の教育戦略： 第13条<br />
きちんと自分の意見を持ち、衝突を恐れずにそれを主張することを奨励しつつ、同時にその怖さも伝えていきたい。何かを得るということは、多くの場合、何かを失うことでもある。<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201007/03/05/c0071305_14192569.jpg" alt="_c0071305_14192569.jpg" class="IMAGE_MID" height="338" width="500" /></center>関連記事<br />
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      <dc:subject>我が家の教育論</dc:subject>
      <dc:creator>NED-WLT</dc:creator>
      <pubDate>Sat, 03 Jul 2010 14:22:09 +0900</pubDate>
      <dc:date>2010-07-03T14:22:09+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>子供がケガをしたとき</title>
      <link>http://nedwlt.exblog.jp/9061140/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://nedwlt.exblog.jp/9061140/</guid>
      <description><![CDATA[転んでケガをしたりすることは子供の常です。時に、思わずびっくりしてしまうようなケガもします。しかし親は、いかに本心では焦っていても、その焦りを子供に見せてしまっては良くないと思います。<br />
<br />
何故なら子供は、自分では自分のケガの程度が良く解らないので、ケガがどのぐらい深刻なものなのかを判断する材料として、親のリアクションに注目しているからです。<br />
<br />
親が落ち着いていれば、子供は泣きながらも、自分のケガは深刻なものではないと判断しますし、逆に親が焦っていると、子供は「自分は死ぬかもしれない」という心配のあまり泣き疲れ、余計に弱ってしまうという具合です。<br />
<br />
最終的には、子供は、いかなる状況にあっても「焦る」ということが何の解決にもならない（むしろマイナスである）ということを理解しないとなりません。その意味では、子供がケガをしたときというのは、子供が焦らないためのテクニックを学ぶ、またとないチャンスだと思うのです。<br />
<br />
具体的には、子供がケガをしたのであれば、子供に自分のケガを「観察」させます。血が出ているのかどうか。血が出ているとして、それは止まりそうなのか、それともまだしばらくは血が流れそうなのか。痛みは和らぎつつあるのか、それとも継続しているのか。どのような対処が適切だと思うか、等々。<br />
<br />
ある意味で、「焦る」という言葉の反対は「落ち着く」ではなくて「観察する」だとすら思います。特に死に直結しかねないような場面というのは、焦らずに状況を観察してこそ、そこを通り抜けられるチャンスも高まるというものです。<br />
<br />
怖いからこそ、観察する。焦らずに急ぐ。娘がイスから落ちて泣いた夜、そんなことを考えたのでした（注：幸い、たいしたケガではありませんでした）。<br />
<br />
■我が家の教育戦略： 第12条<br />
子供がケガをしたときは、焦ったり泣いたりしてもどうにもならないことを伝え、出来る限り子供自身にケガを観察させる（もちろんケガの程度にもよるが）。<br />
<br />
水鳥にエサを<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200806/17/05/c0071305_344751.jpg" alt="_c0071305_344751.jpg" class="IMAGE_MID" height="334" width="500" /></center>関連記事<br />
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「お手伝いがしたい！」 2006-06-29]]></description>
      <dc:subject>我が家の教育論</dc:subject>
      <dc:creator>NED-WLT</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 17 Jun 2008 03:06:59 +0900</pubDate>
      <dc:date>2008-06-17T03:06:59+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>I disagree with you!</title>
      <link>http://nedwlt.exblog.jp/8391873/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://nedwlt.exblog.jp/8391873/</guid>
      <description><![CDATA[子供も大きくなってくると、親の思う通りには動かなくなってきます。我が娘も、最近はちょっと親が怒鳴ったぐらいでは、ビクともしなくなりました（笑）。さて・・・ここには非常に難しい問題が隠れています。<br />
<br />
確かに、人格形成の芽生えとしての子供の大人への反抗は、とても自然なことで、かつ子供の成長にとって、とても重要なことだと思います。こうした自我の発露としての反抗を、大人の力で全てムリヤリ押さえつけてしまうことは、加減を誤ると子供の人格の否定にもなり得るでしょう。<br />
<br />
しかしだからといって、大人はそうした子供の反抗を「意義深い反抗」として容認してしまっても良いものでしょうか。僕は、そうは思いません。何故なら、権威に反抗するということには、常にそれ相応のリスクが伴うというのが、人間社会の事実だからです。<br />
<br />
子供が学ぶべきなのは、権威に反抗すること自体ではありません。それでは学級崩壊と同じことが家庭内で起こってしまいます。子供が時間をかけて養って行くべきなのは、権威に反抗してでも守るべき「自らの価値」なのだと思います。<br />
<br />
具体的には、権威への反抗によって飲み込むことになるリスクの大きさを正しく判断できる力を育てて行くことが重要です。そのバランスを見て、時には自分の価値をひっこめて、権威に対して「折れる」ことも人間社会ではリアリティーのある選択なのです。<br />
<br />
必要以上に権威に反抗することを恐れるようでは、相手になめられ、完全にコントロールされてしまいます。その点では、子供は少しぐらいは権威に反抗的なほうが健全です。とはいえ権威に反抗さえすれば、自分の求めるものが手に入ると考えるのは甘すぎる。<br />
<br />
社会がより複雑化し、子供が大人になる前のステージである「青年期」が、昔よりもずっと前後に引き伸ばされている現代では、子供の自立が過去に例を見ないほどに困難になっていると思います。その意味で、いわゆる子供の反抗期と呼ばれるようなものも、長期・複雑化する傾向があるように感じるのです。<br />
<br />
そんな時代だからこそ、親として子供の反抗をどのように受け止めて行くのかということが、これまで以上に、子育てにおいて非常に大切な軸になりつつあるのではないかと。・・・どうも消化不良なので、またいつか考えなおしてみたいテーマです。<br />
<br />
■我が家の教育戦略： 第11条<br />
子供が親に反抗したときには、子供に「今、自分はどんな価値を守ろうとしているのか」を意識させる。それがテレビを見たいだとか、おもちゃやお菓子が欲しいといった自分勝手な価値であれば、親としてはそれに厳しく当たり、リスクを取った結果としての罰を慎重に判断して与えたい。<br />
<br />
子供が守ろうとしている価値がそれなりに意味があるものである場合、子供に親を説得する機会を与え、ときには十分に子供に反抗をさせてから、折れてやるようにする。いかに子供に説得力があっても、人間社会はロジックばかりではなく情緒によっても運営されているのだから、ロジックだけでは折れないように注意したい。<br />
<br />
花のあるところ<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200803/07/05/c0071305_2351511.jpg" alt="_c0071305_2351511.jpg" class="IMAGE_MID" height="331" width="500" /></center>関連記事<br />
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「我が家の教育論はじまり」 2005-08-18]]></description>
      <dc:subject>我が家の教育論</dc:subject>
      <dc:creator>NED-WLT</dc:creator>
      <pubDate>Fri, 07 Mar 2008 02:44:06 +0900</pubDate>
      <dc:date>2008-03-07T02:44:06+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>ピグマリオン効果 （Pygmalion effect）</title>
      <link>http://nedwlt.exblog.jp/7932568/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://nedwlt.exblog.jp/7932568/</guid>
      <description><![CDATA[教育心理学で「教師の生徒への期待によって、生徒の成績が向上する」現象のことを特に、ピグマリオン効果と言います。先に取り上げた「自らが注目されていると感じることで、生産性を高める」というホーソン効果 （Hawthorne effect）と非常によく似ていますね。全く同じではないにせよ、これらはどこかで通底している現象だと思われます。<br />
<br />
さて、実際に自分のことを思い出してみると、子供のころの得意科目というのは、先生との相性に随分と依存していたと感じることがあります。自分のことを認めてくれて、特に気にかけてくれた先生（ある意味、ひいきしてくれた先生）の教科では、（あまり）悪い成績を取らなかったように記憶しております。<br />
<br />
この意味では、優れた教師というのは、どれほど多くの生徒に対して「あなたは特別だ」というサインを送ることができるのかにかかっているとも言えるかもしれません。教師として生徒を平等に扱うことは重要ですが、この「平等に扱う」ということは、メリハリをつけないという意味ではないでしょう。理想的には、生徒皆を「平等にひいきするスキル」がプロの教師には求められているのだと思います。<br />
<br />
僕の塾講師時代（注１）のノウハウを思い出すと、こうしたピグマリオン効果が特に如実に現れるのは、決まって普段は誰からも期待されていないような成績の悪い生徒でした。「まさか成績の悪い自分が褒められるなんて」という意外性が、ピグマリオン効果を高めることにつながるのだと思います（注２）。そうした意味では、子供の苦手科目なんていうのは、意外と簡単に平均ぐらいのレベルまでには持って行けるものだという実感が僕にはあります（もちろん、少なからず例外もあります）。<br />
<br />
例えば、英語の成績がいつも底辺にあるような生徒が、あるテストで、仮に間違ってはいても「ユニークな視点」で回答を作成したとします。教師はそういう機会を逃さずに、他の生徒の前で、その生徒のユニークな視点を「ベタ褒め」してやるのです。このとき、どういうところを「ユニーク」とするのかに関しては、ちょっと言語化するのが難しい、教師としての肝に当たる重要な暗黙知だと思います。他の生徒の手前、褒められる内容には当然、正当性も必要になります。<br />
<br />
では、親として子供を教育するときに、このピグマリオン効果は期待できるのでしょうか。個人的な意見ですが、子育てにおける親子間のピグマリオン効果というのは、子供が「客観性」という概念をまだ発見していない、小さいうちだけにしか効力を発揮しない、「期間限定的なもの」だと思います。<br />
<br />
親というのは、そもそも子供の持って生まれた能力を大きく超えて、子供にめいいっぱい期待するのがデフォルトなので、子供も大きくなってきて物事を「客観的」に考える力が付いてくれば、親の評価にある無理なバイアスに敏感になります。「親の期待」と言えば、ほとんど「精神的な負担」と同義語であることからも、この点は明らかでしょう（注３）。<br />
<br />
教え方の上手い、下手になると、子供の特徴を理解しつつ、マンツーマンで対応できる親のほうが、プロの教師を上回ってしまうことも少なくないでしょう。しかし、このピグマリオン効果を利用できるか否かという点においては、子供の人生と直接の利害関係の無い「教師という他人」に教育をアウトソースしたほうが効果的な面があるのです。あくまで、こうしたピグマリオン効果の存在を知り、その効果を上手に利用できるような教師にめぐりあえた場合の話ですが。<br />
<br />
■我が家の教育戦略： 第10条<br />
教師と生徒の間に生まれるピグマリオン効果を利用するために、積極的に多くの教師と子供を出会わせる。子供には自分を「ひいき」してくれる先生をたくさん発見してもらいたい。また、こうした家庭の外にある社会とのポジティブな接触の体験を増やすことで、子供の自立を促して行きたい。<br />
<br />
（注１）大学時代を通して、いくつもかけもちで塾講師をやっていたのですが、僕はいわゆる「成績の良くない生徒のクラス」を受け持つのが得意でした。それなりに成績を向上させるという結果を出していたので、今から考えても、大学生のアルバイトとしては相当良い時給をもらっていたと思います。<br />
<br />
（注２）逆に既に成績の良い生徒というのは、その教科を勉強することへのモチベーションを既に十分に得ているのですから、それをさらに褒めたところで、その効果は知れています。もちろん、成績が良い生徒を褒めることで失われることはないのですから、成績の良い生徒を褒めるというアクションそのものを止めてしまえと言っているのではありません。<br />
<br />
（注３）親として子供の可能性を誰よりも信じてやることを止めてしまってはなりませんが、そうした期待「だけ」では、子供の成績は上がらないというところも理解する必要があるでしょう。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200801/08/05/c0071305_2124779.jpg" alt="_c0071305_2124779.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>関連記事<br />
「ひとりでいられる能力 (ability to be alone)」 2005-08-21<br />
「余暇に感じる罪悪感」 2007-05-22<br />
「お手伝いがしたい！」 2006-06-29]]></description>
      <dc:subject>我が家の教育論</dc:subject>
      <dc:creator>NED-WLT</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 08 Jan 2008 02:22:44 +0900</pubDate>
      <dc:date>2008-01-08T02:22:44+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>強い刺激の危険性に関して</title>
      <link>http://nedwlt.exblog.jp/6341082/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://nedwlt.exblog.jp/6341082/</guid>
      <description><![CDATA[せっかくの休日、子供をどこかに連れて行ってやりたいと思うのは親心です。ですが休みのたびに子供をテーマパークや遊園地に連れて行ったり、イベントや映画を観にいったりすることにはある種の危険性が含まれていると思います。<br />
<br />
テーマパークなどは、様々な「刺激」に溢れています。しかし人間にとって刺激とは、常に「中毒」と表裏一体の関係にあるものです。刺激の強すぎるものを子供に与えてしまうと、刺激への耐性がまだ鍛えられていない子供は簡単に中毒になってしまうと思います。よく取り上げられるこうした中毒の好例はテレビ番組やテレビゲームですが、テーマパークなども子供が自ら「遊んで」いるのではなく「遊ばされている」という文脈においてテレビゲームと本質的には変わらないと僕は思います。<br />
<br />
何かを好きになることはとても素敵なことです。しかし好きになることと中毒になることは違います。中毒状態というのは自らが主体的に何かを好きなのではなくて、強い刺激によって好きに「させられてしまっている」状態です。こうした状態に慣れてしまうと、子供の中で「好き」という本来は内発的であるはずの概念が、「強い刺激」という外発的な概念に一体化してしまい、常に強い刺激を求めて彷徨うようになってしまうかもしれません。<br /><br />自分を中毒にさせてくれるような強い刺激を求めて生きるという態度は、極端に言えば、自分の内側には自分の好きなことが何も無く、いつだって他人がプロデュースした刺激を探して生きるということです。いわゆる「自分探し」が流行るというのも結局ここらへんに原因があるのではないかと思います。世間で言う「自分探し」はどこか刺激的な世界旅行を連想させますね。でも自分探しというのは本来、地味で内向きな図書館での読書や自宅での瞑想のようなものではないかと思うのです。<br />
<br />
鍵となるのは、その遊びをプロデュースしているのが子供自身かどうかという視点ではないでしょうか。さらに遊びをプロデュースすること自体の喜びを知ることも大切だと思います。大上段に構えれば、自分の遊びを自分でプロデュースするということは、そのまま自らの人生をプロデュースすることに直結していると思います。<br />
<br />
もちろん、あまりに子供を世間の刺激から遠ざけて育てるというのも結果として刺激に弱すぎる大人が出来てしまう可能性があり問題だと思います。また程度の差はあれ、人間が楽しいと感じることには何らかの刺激があるものです。刺激というのは人間が生きてゆくためには必要なもので、刺激そのものがイケナイというのではありません。現実にはテーマパークやテレビゲームが問題となるのも、それらを利用する頻度であって、その存在自体ではありません。僕自身もゲーム好きです。<br />
<br />
要するに刺激というのは人が生きてゆくために使いこなして行かねばならない刃物のようなもので、小さな子供にいきなり鋭利な刺身包丁を与えることが間違いであるのと同様に、その程度と頻度を子供の成長度合いに合わせて親がコントロールしてやる必要があるというのが今回のエントリの主旨です。例によってバラバラな構成でしたが（笑）。<br />
<br />
子供にとって世界とは完全に未知の場所であり、大人にとっては小さな物事に過ぎないものも、その一つ一つが子供には十分に刺激的な発見なのです。巣穴から砂を運び出すアリを見て1日過ごすこともあるのが子供です。ムリヤリ「楽しい場所」に子供を連れ出すのではなく、子供がその内的な成長に合った「楽しさ」を自分で発見できるような場を提供することが親の役割だと思うのです。<br />
<br />
■我が家の教育戦略： 第9条<br />
人生の本質である「退屈」と向き合い、自ら「楽しさ」を発見して行く機会を子供から奪わない。子供が何かへの熱中を示したとき、それが中毒ではないかを気にかける。子供がある程度の年齢になったら、刺激との付き合い方に関して、きちんと親子で話せるようになりたい。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200706/19/05/c0071305_21255.jpg" alt="_c0071305_21255.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center>関連記事<br />
「取扱注意」 2005-10-22<br />
「余暇に感じる罪悪感」 2007-05-22 <br />
「ひとりでいられる能力 (ability to be alone)」 2005-08-21 ]]></description>
      <dc:subject>我が家の教育論</dc:subject>
      <dc:creator>NED-WLT</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 19 Jun 2007 02:03:00 +0900</pubDate>
      <dc:date>2007-06-19T02:03:00+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>余暇に感じる罪悪感</title>
      <link>http://nedwlt.exblog.jp/6146274/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://nedwlt.exblog.jp/6146274/</guid>
      <description><![CDATA[今からおよそ3千年前のこと。小アジア、リディアは大飢饉に襲われました。このときリディア人が取った解決策は、飢えを忘れるほどにゲームに没頭するというものだったとヘロドトスは伝えています。<br />
<br />
この逸話が意味するところは人間の本性に関する鋭い洞察です。人はパンのみに生きるにあらず。金銭や権力、地位や名誉だけが人間の生きるモチベーションを活性化させる（動機づける）のではないということです。<br />
<br />
無論、決して満たされることのない人間の欲望を前提としつつ、金銭などの外発的な報酬をアメとして人を動かすという人間社会のシステムが、これまで非常にうまく機能してきたという歴史を忘れることはできません。僕自身が過去に「牙は折れたか」というエントリで自分のモチベーションが下がった時に対処する方法として、自らこうした外発的な報酬を求める方法を挙げています。<br />
<br />
しかし、このような外発的な報酬と、規範から外れたものへの外発的な罰こそが人間社会システムの本質であると単純化することにいくばくかの真理があるならば、この社会システムが人間の実生活もたらすのは事実上の「脅迫」です。<br />
<br />
他人との比較において良い成績を上げるために勉強をするという受験勉強はその好例です。親は勉強の意味がまだ良く理解できない子供に受験勉強をさせるために、褒めたり、脅したり、時にはそれこそ子供が欲しがるゲームなどのご褒美を与えます（逆に言えば、これは勉強をしなければ望むものは与えられないという手の込んだ脅しです）。<br />
<br />
親によるこれらの行為は、子供に対して「外発的な報酬を得るために辛いことも我慢し成し遂げる」という、完成された脅迫型の社会システムを教育することであると解釈できると思います。この脅迫が上手く子供の心に染み込めば、人間社会のシステムを潤滑に動かすための「大人」が出来上がるという仕組みです。しかし、こうした脅迫型の社会システムには欠陥もあると考えます。それはこのシステムに付随している次のような価値観の存在です。<br />
<br />
為さねばならないこと、勉強や仕事はそれ自体は無意味であり、その結果として得られる報酬のみにこそ価値がある。為さねばならないことは、基本的に楽しいことではあり得ない。<br />
<br />
このような価値観が生み出すのは、仕事と余暇の断絶です。このままでは仕事とは我々の内発的な欲求に逆らって「我慢」をして遂行しなければならないことであり、余暇とは無益ではあるが自分の好きなことをすること、となってしまいます。<br />
<br />
僕自身が、常々受験勉強や仕事に退屈と欲求不満を感じてきたし、せっかくの余暇に「こんなことをしていて、競争に遅れてしまわないか」と焦燥感を越えた罪悪感すらを感じてきたのは、こんな価値観が植え付けられてきたせいだと思うのです。休日に読む本として、小説ではなくて、ついついビジネス書に手が行ってしまう心の貧しさも同根だと思います。<br />
<br />
こうした状態を少しでも改善するのは容易なことではないのですが、外発的な報酬にのみ依存しつつ生きるということは、不愉快な序列に一喜一憂する他者との競争のみを意識して生きるということであり、それらは決して拭い去れない「疎外感」と、覆る事など決してありえない「劣等感」として結晶化するしかないように思われます。友達とすら競争を前提としてしか付き合えないというのは、もはや病気というべきかもしれません。<br />
<br />
鍵となるのは、仕事や勉強、余暇の別無く、いかに物事を為すという行為そのものを楽しめるようになるかにあるのだと思います。誤解を恐れずに言えば、それは飢餓の危機に瀕したリディア人の発想を拡張して、人生において自らが為す行為の多くを、脅迫観念によってドライブされる外発的なものでなく、内発的な遊び、ゲームとして捉え直すことに近いのではないかと思うのです。<br />
<br />
具体的にどのようにしてこの「ゲームとしての捉え直し」を行うのかとなると、単に僕の不勉強のせいかもしれませんが、万人に共通するような確実な方法論は存在しないように思います。僕の場合は大好きな釣りという遊びに集中しているときの幸福感に至るプロセスを、普段の仕事や勉強に持ち込むと上手く行くように感じています。それと、上司から強要された仕事のように外発的なものも、あたかも自分のベンチャーでの取り組みであるかのように自発的なものへと規定しなおすことでも気分が大きく変わるようにも思います。<br />
<br />
そしてこれはとても難しいことですが、楽しい遊びの前提は「嫌ならいつでも止められる」というような参加と撤退の自由にこそあるのですから、仕事においても自らのスペシャリティーを高め、会社への依存度を極力低く保ちつつ、本当に嫌なら辞めてしまうという強さを備えることが、結局は幸福なプロフェッショナルへの近道なのではないかとも感じます。<br />
<br />
不思議とやる気になった勉強も、親に「勉強をしなさい」と言われたとたんに、その勉強へのモチベーションを完全に失ってしまった理由も、今回のエントリでまとめたところとかなり近い部分にあることは僕の中でははっきりしています。勉強であれ仕事であれ、いかなる行為であっても、それが外発的であることと内発的であることの間には、無視できない重要な違いがあるのです。<br />
<br />
■我が家の教育戦略： 第8条<br />
現実として人間社会の厳しい競争に打ち勝つという視点を大切にしつつも、相対的な問題として、物事に対して「楽しみながら自発的に」チャレンジして行くという姿勢に価値を置いた教育をして行きたい。そのために、子供の内発的な好奇心を刺激することに努め、いわゆるアメとムチによる脅迫を前提としたコントロールをなんとか最小限としたい。<br />
<br />
本稿の記述におけるコアの部分は、その多くを『楽しみの社会学』（チクセントミハイ）を参照しつつ書いています。すばらしい本ですので、機会があれば一読をオススメします。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200705/22/05/c0071305_3273528.jpg" alt="_c0071305_3273528.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center>関連記事<br />
「取扱注意－もう少し深く」 2005-10-26 <br />
「25メートル、キャー！」 2006-12-15 <br />
「お手伝いがしたい！」 2006-06-29 <br />
]]></description>
      <dc:subject>我が家の教育論</dc:subject>
      <dc:creator>NED-WLT</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 22 May 2007 03:29:36 +0900</pubDate>
      <dc:date>2007-05-22T03:29:36+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>テレビがダメで、読書がアリな本当の理由</title>
      <link>http://nedwlt.exblog.jp/5448219/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://nedwlt.exblog.jp/5448219/</guid>
      <description><![CDATA[知識を得るため、情報を得るため、言葉を学ぶため、教養主義への憧れ、単純に面白いから、人生の役に立つから、魂が求めるから、暗黙知を形式知にできるから、などなど。どれも自分が読書をする理由を、既に読書をすることが習慣になっている人が語ることです。<br />
<br />
これらの考察は、残念ながら普段は全く本を読まない人には響きません。だって、どの理由にもテレビという強烈な代替品があるからです。ご存知の通り、テレビにも主にドキュメンタリー番組を中心に素晴らしいプログラムが多数あります。魂を洗われるような、すばらしい映画もテレビで放映されています。教育番組、教養番組もあります。<br />
<br />
では、テレビを観たいと駄々をこねる子供の要求を、僕は何故却下するのでしょうか。どうして僕はテレビをねだる子供に絵本を手渡し、読書の習慣を植え付けようとしているのでしょうか。それは、テレビを観てばかりいては、決して長期的な競争に勝ち残れる人間が育たないと感じるからです。今回は、その理由を僕なりに考えてみます。<br /><br />2時間の会議を終えて、その内容を議事録としてメールで関係各所に報告するなんてこと、ありますよね。そういう時、まとめるのが上手な人が書くと、2時間の話が見事に数行に収まったりします。それで仕事に支障が無いレベルの情報が十分に伝わります。<br />
<br />
その数行には含まれない情報にも、それなりに重要なこともあるでしょう。しかしだからと言って、関係者の皆が2時間の会議に出席していては他の仕事が進みません。議事録には、ドキュメンタリー番組よろしくその場の状況が詳細に記述されているよりも、むしろ余計な情報が贅肉として省かれ、要点だけが抽出されているほうが、仕事の効率も上がるでしょう。<br />
<br />
その場に居て、五感を総動員して取得した情報を、数行の文章として圧縮する能力<br />
<br />
これはまず、重要なことをより多く記憶しておくために必要となる能力です。動画よりも静止画、静止画よりもテキストのほうが情報のサイズが小さいという事実からしても、圧縮された文章は保存スペースをあまり食いません。同時に上手に圧縮された情報は、コミュニケーション効率を高めるための鍵となることは、先の議事録の例からみたとおりです。贅肉の削がれた重要情報を多く記憶し、効率のよいコミュニケーションをとるための引き出しが豊かな人材は、変化の激しい時代にあってもたくましく生きて行けると思います。<br />
<br />
他人によって文章として圧縮された情報を、動画として脳内で解凍し再生させる能力<br />
<br />
これこそが、最近はあまり強調されることが無くなった「想像力」という言葉の真の意味なのではないでしょうか。同じ短い文章でまとめられたメールから多くのことを引き出せる部下と、そうでない部下がいることは、皆様ご存知の通りです（笑）。想像力に欠けていると、偉大なる先人たちが残した膨大な量の社内文章から得られる内容もチョッピリということになってしまいます。<br />
<br />
ところでテレビから飛び出してくる情報には、ほとんど圧縮がかけられていないからこそ、テレビは知的能力が開発されていない小さな子供でも楽しめるのです。しかし、そんなテレビにばかり時間を使っていては、大きな仕事をする上で必要な想像力、すなわち高度に圧縮された情報を解凍させる能力は育たないと思います。テレビよりは絵本、絵本よりは本で、圧縮された情報を解凍するというトレーニングをしておかないと、今後ますます増えて行く情報を効果的に処理しつつ時代を乗り越えて行く力が養えないと思うのです。<br />
<br />
文章として圧縮されている情報を正しく解凍させる能力を身につけたとすれば、そこにはテレビと比較して、質において圧倒的に優位な情報の世界が開けています。その場の必要に応じて、より多くの良質な情報にアクセスできるということが競争優位の源泉であるとするならば、1冊にテレビ数年分ぐらいの内容を圧縮させることが可能な本というメディアを、ものの数時間で読解できる人間が有利となることは明らかなように思われるのです。<br />
<br />
英会話の勉強においてスピーキング（発信）よりはリスニング（受信）が先ということと同様に、圧縮（発信）と解凍（受信）では、解凍させる能力、すなわち本を読む能力の開発がまず先に立ちます。同時に、良い文章にたくさん触れることで情報を解凍させる能力を磨いていると、自然に良質な圧縮の技術を学び取って行くことができます。ところで、ブログにエントリをアップするという作業は、もしかしたらこの圧縮技術の修得に最適なトレーニング方法かもしれません。<br />
<br />
脳内に情報の圧縮、解凍ソフトウェアを組み込み、それを絶え間なくバージョンアップさせて行くという作業が、読書のユニークな本質なのではないかと考えているからこそ、僕は子供に読書の習慣を植え付けようとしているのです。個人的には、読書をすればするほど、脳という知識創造プロセッサの能力は高まると期待しています。<br />
<br />
■我が家の教育戦略： 第７条<br />
家に本棚を作り、広い分野の本を集め、図鑑など気軽に親子で本を手に取ることで、子供が読書に親しめるような環境作りに配慮する。子供が自主的に一人で本を読めるようになるまでは、意図的に読書をしている親の姿を子供に見せるようにし、読書は生涯続けて行くべき大切な習慣であるということを、身を持って伝える。子供が小さい頃は、子供が読書に慣れ親しめるよう、絵本の読み聞かせを日課とする。<br />
<br />
<br />
（蛇足１）読書vs.ネットについて。今のところはまだ文字情報が主流のネットは、遠からず動画が主流のテレビに似たものになって行くと考えられます。仮に文字情報が主流の座にいられるとしても、現時点では、本として出版される文章のレベルと、ネットで拾える文章のレベルには特にその質において無視できない差があると思います。とはいえ、図書館をまるごと文字情報に変えてしまうようなプロジェクトがもっと進めば、ネットの有用性が高まる事は、特に検索に優れるという点において明らかです。今のところは、文字情報としては、読書が主でネットが従ですが、将来的にはこの関係が逆転する可能性もあるでしょう（個人的には、あまりこの可能性を信じてはいませんが）。<br />
<br />
（蛇足２）絵本vs.漫画について。漫画にもすばらしい作品があることは否定しません。しかし、漫画と絵本では、絵本のほうがずっと圧縮解凍のトレーニングには向いていると思います。何故なら、多くの漫画は絵と登場人物の台詞で構成されているのに対して、絵本は、絵が付いてはいるものの、その総数は漫画よりも圧倒的に少なく、絵が無くとも話が伝わるような状況説明文が中心で出来ているからです。絵本は、その性質がテキストのみで出来た本にかなり似ており、子供が段階的に読書に親しめるようになるためのステップとして最適となるようデザインされてきたと思います。そんなわけで、絵本vs.漫画、僕の中では絵本に軍配が挙がります。<br />
<br />
（蛇足３）ちょっと古いんですけど、文部科学省の資料（pdf）によると、2001年に行われた調査では、日本の子供の月平均読書冊数は、小学生で6冊、中学生で2冊、高校生で1冊まで落ちることが解りました。逆に1ヶ月に1冊も本を読まなかった子供の割合は、小学校で11%、中学校で44%、高校では67%にもなります。<br />
<br />
（蛇足４）この話を思いついたのは、料理の本を読んでいる最中でした。干シイタケをぬるま湯で戻す時には、浸透圧の影響でシイタケ内部の旨味が湯中に逃げてしまわないように砂糖を少し加えると良いという部分でヒラメイタのです。圧縮されたものを、元の状態に戻すという作業には、圧縮されるときに失ったものを追加するだけではダメで、そこに工夫が必要であることを知り、「これって読書経験じゃないか」となったわけです。まあ、世の中に本当に新しい考えなどそうそう無く、こうした読書に関する考察はどこかで既に述べられているとは思います。でも、このヒラメキ体験は、「イノベーションは、関連性の無い分野の知識から訪れる」という仮説を裏付けるもののようで、とても愉快でした。<br />
<br />
本は、数時間で読めるようなもの・・・ばかりではありませんね（笑）。<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200702/05/05/c0071305_544095.jpg" alt="_c0071305_544095.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center>]]></description>
      <dc:subject>我が家の教育論</dc:subject>
      <dc:creator>NED-WLT</dc:creator>
      <pubDate>Mon, 05 Feb 2007 05:46:55 +0900</pubDate>
      <dc:date>2007-02-05T05:46:55+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>25メートル、キャー！</title>
      <link>http://nedwlt.exblog.jp/5142425/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://nedwlt.exblog.jp/5142425/</guid>
      <description><![CDATA[昨日、娘が、浮き輪などの補助無しで25メートルを泳ぎきることができました。もちろん美しいフォームのクロールなどではなく、どう表現して良いやら困るような命ギリギリのフォームで泳いだ25メートルです（笑）。でも、スポーツ・クラブに入会し、家族皆で週2、3回程度のペースで泳ぎ始めたのが先の8月ですから、なかなかの結果ではないかと思います。<br />
<br />
初めは、とにかく楽しみながら少しずつ泳げれば良いかな、なんて思っていました。でも続けるうちに、このようにして親子で水泳をするということは、僕にとって子育てを学ぶためのとても良い機会であることに気が付きました。<br />
<br />
子育てにおいては、子供を褒めることが重要と言われることが多いように思います。僕もそうした意見に賛成で、なるべく褒めるようにしていました。でも、それがもし「親に褒められたいから努力する」という姿勢を恒常的に子供に植え付けてしまうとするなら、それは子供から独立自尊の精神を奪うことになるのではないかと考えるようになり、最近では「褒めて育てるリスク」を意識しています。<br />
<br />
何事も新しく学ぶことは、最初はとても難しく、クリティカル・マスを越えるまではどうしても学ぶことに楽しさを感じられることは少ないと思います。そのため、子供がそうした初学者の状態を早く脱出できるように、大げさに褒めたり、何らかのご褒美をあげたりすることは子育てのテクニック的な部分でしょう。でもテクニックはあくまでテクニックであり本質ではありません。<br />
<br />
初学者であることから飛び出した後は、誰かに褒められるためにとか、他人に押し付けられたからという状態を卒業し、子供には「自分自身が成長する喜び」を感じてもらいたいのです。これに成功してしまえば、後は子供自身が、それが楽しいからやるという自主性を持って取り組めるような環境を整えてやることが親の仕事になるのであって、褒めるのもほどほどにしておくのが吉だと考えるようになりました。<br />
<br />
水泳は、一旦初学者の状態を出れば、後は何メートル泳げるようになったかという具合に、小さな子供でも自分の成長を客観的に測定することが出来ます。また、特に競泳でもやらない限りは、水泳には、他人との競争というよりはむしろ、自分自身との戦い、自分の限界を推し進めるという楽しさがあります。<br />
<br />
我が家でも、当初は浮き輪を外して泳ぐことを怖がっていた娘を勇気付けるために、褒めたり、ご褒美を用意したりしました。でも今では、娘はそうした「見返り」無しに水泳を楽しんでいます。そしてついに25メートルを泳ぎきる力を付けたのです。<br />
<br />
泳ぎきった娘は、僕に何かを言われるまでもなく、喜びを全身で表現していました。僕は娘を祝福しました。でもそれは、娘を褒めたのではなく、娘の成長を娘と一緒に喜んだのです。小さな娘にとっての25メートルは、僕の25メートルとは違います。僕は、自らの限界を打ち破った娘に尊敬の念を抱きました。<br />
<br />
■我が家の教育戦略： 第6条<br />
独立自尊の精神を養うため、子供には、自らの限界を推し進める喜び、成長を実感する喜びを出来るだけ沢山経験させる。<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200612/15/05/c0071305_658018.jpg" alt="_c0071305_658018.jpg" class="IMAGE_MID" height="533" width="400" /></center>]]></description>
      <dc:subject>我が家の教育論</dc:subject>
      <dc:creator>NED-WLT</dc:creator>
      <pubDate>Fri, 15 Dec 2006 06:59:12 +0900</pubDate>
      <dc:date>2006-12-15T06:59:12+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>お手伝いがしたい！</title>
      <link>http://nedwlt.exblog.jp/4076661/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://nedwlt.exblog.jp/4076661/</guid>
      <description><![CDATA[僕がストレス・マネジメントの講義で教わった話で、残念ながら出典が明らかではないのですが、2匹のネズミを用いた興味深い実験の話から始めます。聞き覚えの話なので、細部には間違いがあるかもしれませんが、その点は、ご容赦ください。また、もし、このエントリを読まれた方で、この実験が記載された元の論文をご存知の方がいらしたら、コメント欄に連絡いただけると嬉しいです。<br />
<br />
＊＊＊<br />
<br />
2匹の種類や性質に違いが見られないネズミを対象になされた実験です。2匹のネズミＡ、Ｂには、それぞれの尻尾に電気を流すコードが付けてあり、別々のケースに入れられています。2本のコードは同じ電源につながっており、ごく微量の電気を流すスイッチは実験者である人間の手にあります。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200606/29/05/c0071305_5163529.jpg" alt="_c0071305_5163529.jpg" class="IMAGE_MID" height="495" width="469" /></center>実験者がスイッチを押すと、ビビッと電気が2匹のネズミに同時に流れます。この電気は、別のスイッチを押さない限り、ビビビビ・・・といつまでも止まらない仕組みになっています。その、電気を止めるスイッチを、2匹のうちの1匹が入れられたケースにだけ、置いておきました。<br />
<br />
ごく微量の電気を流しました。微量とはいえ、とても不快なので、ネズミは狭いケースの中で逃げようとします。すると、電気を止めるスイッチを持つほうのネズミＢが偶然、このスイッチを踏み、電気は止まります。<br />
<br />
何度も同じごとが繰り返されると、ネズミＢは、このスイッチの意味を完全に理解しました。ビビッと来ると、サッとスイッチを踏みに行くようになり、ついには少しの間だけ、ビビビビを楽しむ余裕さえ見せ始めたということです。<br />
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この後、ビビッと来る電気の量、すなわち受けるストレスの総量は全く同じであるにも関わらず、この2匹のネズミに起こった変化の違いは、とても象徴的でした。<br />
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電気を止めるスイッチを持ったネズミＢは、実験期間が長期化するにつれて、毛艶を増し、食欲旺盛となり、どんどん元気になって行き、体重も増えました。これに対して、もう一方の、電気を止めるスイッチの存在など知らないネズミＡのほうは、どんどん萎縮してしまい、ついには、小さくうずくまり、電気を流されても反応すらしなくなり、完全に弱りきってしまいました。<br />
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＊＊＊<br />
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さて、この実験結果の示唆するところは、とても重要だと思います。ストレスのある状況にあって、状況そのものを自分なりに理解し、コントロールする力を持つと、動物は、より元気になる可能性があるということです。逆に、コントロールする力を奪われていると、ごく小さなストレスが連続するだけでも弱りきってしまう可能性があるとも読めます。一般に、権力者がパワフルであり、搾取される奴隷が無気力となることには、後天的な面があり、どうやらそれは科学的に説明がつきそうだ、という話なのです。<br />
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この実験結果をマネジメントの視点でとらえると、上司が部下に権限を委譲することの重要さが、より鮮明に見えてきます。なんの権限も与えられずに、ただひたすら使われるばかりの社員というのは、徐々に萎縮してしまい、ついには無気力な状態に近づいて行くことになるでしょう。部下の能力を最大限に引き出してやるのが上司の役割の一つであるとするなら、とにかく小さなことからでも、部下に権限を与えて行くことが大切になって来るのだと思います。<br />
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そして、ここからが本題。この実験結果を子育ての文脈で考えてみます。<br />
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子供を育てていると気がつくことは、とにかく子供には「お手伝いがしたい」という欲求が備わっているということです。料理のお手伝い、買い物のお手伝い、掃除のお手伝い、などなど。親からすると、時にイライラさせられるほどに、子供はお手伝いを押し売りして来ます（笑）。これは、単純に親に褒めてもらいたいからだと考えることも可能ですが、この2匹のネズミの実験結果を考慮すると、これは「家族生活に責任を持って参加したい」という、小さな権力の欲求であると考えることができると思います。<br />
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家庭の中で、小さい頃から仕事を任され、家庭をより良い場所にするために貢献して行くということは、子供が、まるでスイッチを持ったネズミのように、ストレスを受けつつも、どんどん生きる力を増して行くことにつながるはずです。逆に、子供は勉強だけしていれば良いという具合に、なんの権限も与えられないとするならば、子供は萎縮し、無気力になってしまうのではないでしょうか。<br />
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具体的には、子供に植物の世話などをさせることが、良いスタートになるはずです。お水をあげるだけでなく、健康状態を気にして、窓際の日当たりの良い場所に出したり、植物の種類によっては、日陰のほうが良かったりと、学ぶ事も多いでしょう。<br />
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これが先の「娘の疑問」への回答となるのではないかと思います。社会の発展に責任を持って参加してゆくことというのは、お手伝いをすることと同じように、楽しくて元気になることなのです。これは、我が家の教育目的において根底に流れる、積極的に社会と関わって行く態度に通じる理屈としての位置づけです。<br />
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■我が家の教育戦略： 第5条<br />
家庭の中で、どんどん子供に仕事と責任を与えて行く。また、子供をボランティアなどに参加させることで、実社会の中でも、徐々に仕事と責任を得る体験をさせて行く。<br />
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<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200606/29/05/c0071305_5184967.jpg" alt="_c0071305_5184967.jpg" class="IMAGE_MID" height="334" width="500" /></center>]]></description>
      <dc:subject>我が家の教育論</dc:subject>
      <dc:creator>NED-WLT</dc:creator>
      <pubDate>Thu, 29 Jun 2006 04:46:47 +0900</pubDate>
      <dc:date>2006-06-29T04:46:47+09:00</dc:date>
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      <title>娘の疑問</title>
      <link>http://nedwlt.exblog.jp/3586849/</link>
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      <description><![CDATA[先日、家内が軽めのギックリ腰になりました。当然、家事なども手につかないので、僕が色々と家の仕事を一人でこなすことになりました。あいにく、仕事が混んでいたので、仕事を休むことまではしませんでしたが、それでも昼には一時帰宅して、洗濯物と昼ごはんの準備などもしました。<br />
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昼食の後片付けを済ませて、洗濯物を干し終わって、さあ職場に戻ろうとコートを着たときのことです。娘が僕の足にしがみついて、行かないでくれ、遊んでくれと懇願したのです。僕は、娘に、腰を痛めたお母さんの看病をしてやってくれと、その場しのぎのお願いをしました。すると、娘は、こう言ったのです。<br />
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　　「何で、仕事に行っちゃうの？」<br />
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僕は、とっさに、そうしないと、食べるものも買えないし、生きてゆけないからだという意味のことを伝えました。その後、この回答は間違いではないが、良い回答ではなかったと、自転車でキコキコと職場に戻りながら反省しました。<br />
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僕は、まず、家族の生存を確保するために、外で仕事をしています。家内との違いは、それが家の外であるか中であるかだと思っています。では、自分の家族の生存さえ確保されてしまえば、それで良いのでしょうか。例えば、宝くじにでも当たってしまえば、それで一切の仕事を辞めてしまうのでしょうか。<br />
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この娘の疑問に答えることは、容易ではなさそうです。この疑問があるところには「人は何故生きるのか、人生の目的とは何か」という、そもそも画一的な回答を一切受け付けない魔物が住んでいるからです。こうした解答の無い問題を延々と考えることも、まあ楽しいのですが、ここは子育てという文脈から問題のあり方を組み替えてみる必要がありそうだと考えました。<br />
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子育てにおける、我が家での僕の役割は、リーダーシップを発揮することです。リーダーの大切な役割は、グループ（この場合は家族）の進むべく方向性を示し、かつグループの士気を高めてゆくことだと思います。子供に仕事に行く理由を聞かれ、それを「避けられない、仕方のない、嫌なもの」として答えてしまって、どうして将来、子供が進んで社会に出て、仕事をして行こうという気分になるでしょうか。こんな回答で、子供の士気が高まるとは到底思えません。<br />
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リーダーシップの鍵となるのは、揺るぎ無き価値観と、利他的なビジョンだと考えています。もちろん、本当の僕の価値観は、このブログにも現れているとおり、揺らぎまくります（笑）。しかし、そうした「迷い」を、まだ幼い子供に対して生々しくさらけ出すことは、リーダーシップの放棄だと、僕には思われるのです。もちろん、人が迷っている時に、解決を示すのではなくて、ひたすら一緒に迷ってやることは、とても大切な優しさの一形態だと理解しています。が、それはリーダーの役割では無いと、僕は思います。<br />
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　　「何で、仕事に行っちゃうの？」<br />
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次に聞かれたときは、世界をより良い方向に前進させるためだ、という意味のことを、子供の言葉で答えます。それはとても大変で、遊ぶ時間が減ってしまったりする辛いことだけど、この壮大な事業に関わることは、とても名誉で幸せなことである、と。そして、お前は、いずれその事業の中核をなすために生まれてきたのだと。<br />
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この、カッコイイ価値観が全く不動のものではなく、むしろ現実の世界ではマイナーな価値観であるという真実は、いずれ、娘が経験を通して学ぶことです。そして、娘は価値観に迷うことになるでしょう。そんなとき、娘は、自宅の本棚を見て、何かを感じることになると思います。それは、僕と家内が、これまでに迷いながら描いてきた価値観の地図だからです。<br />
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<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200602/27/05/c0071305_15411222.jpg" alt="_c0071305_15411222.jpg" class="IMAGE_MID" height="500" width="375" /></center>]]></description>
      <dc:subject>我が家の教育論</dc:subject>
      <dc:creator>NED-WLT</dc:creator>
      <pubDate>Mon, 27 Feb 2006 15:44:49 +0900</pubDate>
      <dc:date>2006-02-27T15:44:49+09:00</dc:date>
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      <title>取扱注意－もう少し深く</title>
      <link>http://nedwlt.exblog.jp/2955003/</link>
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      <description><![CDATA[前回、我が家の教育論シリーズ「取扱注意」で、夢に振り回されることの危険性について触れましたが、自分としても説明が足りず、どこか釈然としないので、もう少しそのバックグラウンドとなる部分について考えてみます。何が、昔と変わっているのか。<br />
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手垢が付いたトピックで恐縮ですが、大学入試センター試験にも出題されたという、アブラハム・マズロー（アメリカの心理学者）の欲求段階説についてです。<br />
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人間の欲求は、下層から上層に向けて5段階の層をピラミッド状に成しており、その欲求は下層から始まり、それが満たされてやっと次の段階の欲求を持つというものです。上位ほど高度で贅沢な欲求ということになるかと思います。これを図示すると以下のようになります。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200510/26/05/c0071305_548817.jpg" alt="_c0071305_548817.jpg" class="IMAGE_MID" height="250" width="434" /></center>高度成長期は、求人需要のほうが、人材供給を大きく上回っていました（安全の欲求を支える）。また、終身雇用（帰属の欲求を満たす）が約束され、年功序列、退職金や年金もほぼ約束されていました（安全の欲求を満たす）。こうした高度成長期に生きていた人々の典型的な欲求レベルを、このマズローのピラミッドで説明すると次のようになります。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200510/26/05/c0071305_549423.jpg" alt="_c0071305_549423.jpg" class="IMAGE_MID" height="252" width="438" /></center>一般的に、下層3層の欲求が自然と満たされていて、自我の欲求や、いわゆる「夢」につながる自己実現欲求を追いかけるだけの余裕があったと考えられます。求人も多いのですから、ゆっくりと自分探しをしてから就職することも出来たと思います。たとえ、途中で夢破れても、そこからでも優良企業に空きを見つけて、もぐりこみ、最低限でも下2層を確保することはできたでしょう。日本には、過去、社会として、より多くの自己実現欲求を満してやれる容量に恵まれていた時代があったのです。<br />
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それに対して、僕や、僕の子供の世代における日本とは、人口減少、社会福祉の質の低下、年金不安（まあまず、もらえないでしょう）、雇用条件の悪化などを背景に、良くても現状維持、実際には、国力が落ちてゆくことが予想されています。こうした環境においては、そもそも、下2層を自己責任で満たせと言われているのであり、戦って奪い取ろうとしている欲求のレベルは、実に第2層、安全の欲求なのです。右肩下がりということは、給与だって、うかうかしていると、歳を取るたびに実質として減少して行くということです。これを図示すると以下のようになります。<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200510/26/05/c0071305_5492138.jpg" alt="_c0071305_5492138.jpg" class="IMAGE_MID" height="251" width="436" /></center>つまり、先のエントリで僕が言いたかったのは、いつの時代も、どこでも変わらずにガチガチの現実主義的であれ、ということではなく、今後ますます厳しさを増してゆく日本の将来を想うと、まずは堅実に下2層を確保し、帰属の欲求を、家族にフォーカスすることで満たす、という戦略が最も自然なのではないかと考えたのでした。説明に、この時代背景の考察が入っていなかったことが、先のエントリに、釈然としないものを感じることの理由でした。<br />
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特に、日本を高度成長期時代のメガネで社会を見ている先輩方からすると、最近の若者は現実的すぎて元気が無いように映るかもしれません。しかし、それは日本の時代背景にこそ原因があるのであって「もっと夢を大きく持て！」といった励ましは、安全の欲求すら満たせるかどうかが怪しくなってきている若者には響かないのだと思います。<br />
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競争が激化し、下層の欲求実現が困難になってきている現代の日本では、少子化を食い止めようとするための様々な政策も虚しく見えて当然だと思うのです。あたりまえですが、様々な問題は、お互いにリンクしています。こうした問題を解決するためのイノベーションは存在するのか、そしてそれはいつ現れるのか・・・。また考えてみたいです。<br />
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<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200510/26/05/c0071305_6351071.jpg" alt="_c0071305_6351071.jpg" class="IMAGE_MID" height="498" width="373" /></center>]]></description>
      <dc:subject>我が家の教育論</dc:subject>
      <dc:creator>NED-WLT</dc:creator>
      <pubDate>Wed, 26 Oct 2005 05:51:19 +0900</pubDate>
      <dc:date>2005-10-26T05:51:19+09:00</dc:date>
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