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  <title>NED-WLT:時事評論のまね</title>
  <category scheme="http://nedwlt.exblog.jp/i12/" term="時事評論のまね" label="時事評論のまね"></category>
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  <modified>2014-02-24T14:34:30+09:00</modified>
  <author><name>NED-WLT</name></author>
  <tabline>オランダから帰国し、日本での生活がはじまりました。twitter: joesakai</tabline>
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    <title>ビジネスに求められる「想像力」と、その限界について。</title>
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    <created>2014-02-24T14:33:07+09:00</created>
    <author><name>NED-WLT</name></author>
    <dc:subject>時事評論のまね</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[「想像力」というのもまた、キャリア論や人材アセスメントにおけるバズワードですよね。上司や先輩に「想像力」が足りないとか指摘されて、「そんなことはないぞ」と感じたことがある人も多いのではないでしょうか。<o:p>&nbsp;</o:p>こうした認識のズレは、要するに定義の共有ができていない（組織における共通言語化が進んでいない）ことが原因で発生するのだと思います。<o:p>&nbsp;</o:p>ビジネスに求められる「想像力」というのは、要するに、「次に起こることを、どれくらいリアルに考えることができるか」ということです。これは、一般に使われる、芸術に関連するような「想像力」とは意味が異なるので、注意が必要でしょう。<o:p>&nbsp;</o:p>実際に、ビジネスにおけるジュニアとシニアを分けるのも、まさに「次に起こることを、どれくらいリアルに考えることができるか」の差、すなわち「想像力」の差でしょう。<o:p>&nbsp;</o:p>ジュニアは、様々な企画を無邪気に生み出すことはできても、その実現のために必要となるステップや各種リスクに関して「想像力」を働かせることができなかったりします。結果として、妄想や夢想に近い企画を立てて、失敗することにもなります。<o:p>&nbsp;</o:p>これに対して、シニアは、過去の痛い経験などを通して、企画の実現に必要となるステップを「リアルに」考え、そこで起こりえるトラブルやチャンスを「リアルに」想定しつつ、その企画の実現可能性を正しく見積もることができます。<o:p>&nbsp;</o:p>このような、ビジネスに求められる「想像力」は、なによりもまず、自らの経験から得られるものです。同時に、ビジネススクールにおけるケース・メソッド（事例学習）や、各種ビジネス書、経営学書などに学ぶことでも鍛えることが可能だと思います。<o:p>&nbsp;</o:p>で、ここで一つ逆説的な考え方もあります。<o:p>&nbsp;</o:p>大きな変化の渦のなかにある現代社会においては、この「想像力」が、かえってビジネスの邪魔になることもあるということです。そもそも、過去に正しかったことが、将来には間違いになることがあるわけで、へたに「想像力」を働かせるとよくないケースもあるということです。この逆説をキャッチーな言葉にすると、<o:p>&nbsp;</o:p>未経験という資産<o:p>&nbsp;</o:p>といったところでしょう。一般に、未経験であることは悪いこととされます。経験がないと、その業界や分野において「想像力」を働かせることができないからです。<o:p>&nbsp;</o:p>でもだからこそ、常識にとらわれない、新しい考え方を生み出すことができたりもするし、チャレンジする気持ちも保てたりするのでしょう。<o:p>&nbsp;</o:p>組織が成熟し、シニアが数的に大きくなっていくことのリスクはここにあります。シニアが増えると、現実的で、実現可能な企画が立案されます。しかしそれは、面白みに欠ける、イノベーションとはならないものだったりもするわけです（もちろん例外もたくさんありますが）。<o:p>&nbsp;</o:p>ビジネスにおいて「想像力」は重要です。しかし、妄想や夢想にも大きな可能性があるし、実際に社会を変革するのは、妄想や夢想だったりするのかもしれません。もちろん、それだけではダメなのですが。<o:p>&nbsp;</o:p>（ドイツからのお客さまとランチしました！）青森の思い出<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201402/24/05/c0071305_14232993.jpg" alt="_c0071305_14232993.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center>●無料メルマガ『人材育成を考える』もよろしくお願いします。●twitterもやってます：http://twitter.com/joesakai<br />
<br />
<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>浅田真央選手と「素直さ」について。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nedwlt.exblog.jp/21707686/" />
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    <issued>2014-02-21T13:47:00+09:00</issued>
    <modified>2014-02-21T14:41:55+09:00</modified>
    <created>2014-02-21T13:47:14+09:00</created>
    <author><name>NED-WLT</name></author>
    <dc:subject>時事評論のまね</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[キャリア開発において、「素直さ」というのは、とても大事な能力として語られることが多いものです。個人的にも、「素直さ」のあるなしが、特定の人材の成長限界を決めてしまうケースを見てきたように思います。<br />
<br />
この「素直さ」というのは、別の言葉で表現すれば「自分が良さそうだと思ったことを、実行に移す力」と言えそうです。これは、自らの成長限界を突破するための重要な手段であると同時に、想像以上に獲得するのが難しいものだと考えています。<br />
<br />
長く、そんなことをモヤモヤとやってきたのですが、昨晩の浅田選手の演技を観て、感動し、考えが少しまとまったように思うので、以下、記事にしてみることにしました。<br />
<br />
●子供の「素直さ」は失われていくべき<br />
<br />
大事なのは、「素直さ」という特性は、才能ではなくて、獲得すべき能力であるということです。そして「素直さ」という究極の能力は、後天的に、いくつかのステップを超えていくことでしか、得られないものなのだと思います。<br />
<br />
まず、子供の頃から一環して「素直さ」を発揮しつつ大人になるようなケースは、決してほめられたものではありません。なぜか。<br />
<br />
子供の「素直さ」というのは、要するに、大人（コーチ）の言うことをよく聞くという性質にすぎないからです。その背景となっているのは、大人への恐怖と、大人からほめられたいという欲求にすぎません。子供の「素直さ」からは「自分」がどうしたいのかというものが見えてこないのです。<br />
<br />
子供の「素直さ」とは「大人が言うことを、実行に移す力」であって、「自分が良いと思ったことを、実行に移す力」ではないという点がポイントです。<br />
<br />
このように「大人が言うことを、実行に移す力」を持ったまま大人になってしまえば、ただ周囲の価値観に流され、上司から言われることを「こなす」だけのロボットのような人間ができてしまいます。なにせ「自分」がないのですから、なにかを「良さそうだ」と感じる「自分」もいないわけです。<br />
<br />
●反抗期と自分の獲得、あるいは「素直さ」の喪失<br />
<br />
「自分」の獲得に必要になるのが、反抗期です。大人の価値観に違和感を感じ、その違和感と向き合う中で、「自分」が見えてきます。<br />
<br />
これは、大人の価値観に対抗するための、自分の価値観を生み出すということでもあります。それは、自分はどう生きていきたいのか、どのようなことを成し遂げたいのかといったことを（たとえそれが間違っていたとしても）自分で決めるということです。<br />
<br />
しかし、この反抗することで「自分」をつくりあげるというプロセスによって、僕たちはいちど「素直さ」を失っているわけです。この代償は、あまり意識されることがないように思います。<br />
<br />
●自分の目標へのロイヤリティーと、新たな「素直さ」の獲得<br />
<br />
守るべきものは「自分のプライド」なのか、それとも「自分の目標」なのか。ここの判断が、運命の分かれ道のように思います。<br />
<br />
「自分のプライド」を守ろうとすることは、鏡の裏側から見れば、「自分」の弱さを隠し、強がり、「自分」を変化させることから逃げるということです。当然、大舞台で転ぶようなリスクのある選択はできないでしょう。この状態は、「良さそうだと思ったことを、実行に移す力」の発揮を妨げます。<br />
<br />
これに対して「自分の目標」を達成しようとすることは、基本的に、現在の「自分」を否定することでもあります。もし、現在の「自分」が正しいのであれば、既にその目標は達成されているはずだからです。<br />
<br />
大舞台で転ぶような恥ずかしい失敗もして、打ちのめされ、現在の「自分」なんてたいしたことがないという事実と向き合ってはじめて、「自分が良さそうだと思ったことを、実行に移す力」が獲得されるのではないでしょうか。<br />
スケート選手を対象とした研究で、一流選手ではない人たちは自分がすでに「できる」ジャンプに多くの時間をつぎ込んでいることがわかった。一方、トップレベルの選手は自分が「できない」ジャンプにより多くの時間を費やしていた。（中略）荒川静香は、金メダルをとるまでに少なくとも二万回も容赦なく冷たい氷面にお尻を打ち付けていたことになる。<br />
『究極の鍛錬』p260より引用<br />
「目線は高いのに、腰の低い人材」というのは、このようなステップを通してしか、生まれないのではないかと思うのです。荒川選手にせよ、浅田選手にせよ、イチロー選手にせよ、本当に突き抜けた存在に共通しているのは、結局のところ「素直さ」なのではないかと、そんなことを考えたのでした。<br />
<br />
●まとめ＋<br />
<br />
以上の話をまとめると、成長限界を突破していく人々の背後には、以下のようなステップが共通するものとして見えてきます。<br />
<br />
　Step 1. 大人が言うことを、実行に移す力を発露させる<br />
　Step 2. 大人が言うことに反抗することで、自分を獲得する<br />
　Step 3. 自分で目標を掲げ、失敗し、自分の至らなさに打ちのめされる<br />
　Step 4. 自分の目標を実現するために、「素直さ」を発揮させる<br />
　Step 5. 自分の目標を実現し、より高い目標を立てる（Step 3に戻る）<br />
<br />
僕のブログの過去の関連記事としては、以下のあたりでしょうか。この問題について、結構長いこと考えてきた軌跡が（自分には）面白いです。よろしければ、これらも読んでいただけたら嬉しいです。<br />
<br />
　『吸収力に関する理論―２』 2006-02-19<br />
　『経験から学ぶ力を高めたい』 2011-12-10<br />
　『動機づけとは、教育の手段ではなく、目的である。』&nbsp;2011-12-23<br />
<br />
<br />
■追記：長く僕のブログを読んでくれている友達から、このエントリに関連するのはむしろ、以下の記事であるという指摘を受けました。なるほど、「素直さ」があるからチャレンジするのではなくて、チャレンジするから「素直さ」が獲得されるのだと、そういう視点もありますね。<br />
<br />
<br />
　『誠実だから学のではなくて、学ぶから誠実になるのかも。』 2010-02-09<br />
<br />
（お昼、食べ過ぎました・・・）<br />
たらい<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201402/21/05/c0071305_13352856.jpg" alt="_c0071305_13352856.jpg" class="IMAGE_MID" height="334" width="500" /></center><br />
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<br />
<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>「刺激になった」とは、どういう意味だろう。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nedwlt.exblog.jp/21688926/" />
    <id>http://nedwlt.exblog.jp/21688926/</id>
    <issued>2014-02-18T06:06:00+09:00</issued>
    <modified>2014-02-18T06:44:39+09:00</modified>
    <created>2014-02-18T06:06:10+09:00</created>
    <author><name>NED-WLT</name></author>
    <dc:subject>時事評論のまね</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[「刺激になった」という言葉、よくききますよね。<br />
<br />
刺激とは、一般には、僕たちに作用して、なんらかの反応を生み出す要因のことです。その要因になりえる事柄は多数あります。拡大解釈すれば、そもそも「生きる」ということは「刺激を受ける」ということでもあるでしょう。<br />
<br />
とはいえ、特に知的な意味で「刺激になった」というときの意味は、かなり限定的であることに気がつきました。それは「それまで知らなかった合理性（ロジック）を知った」ことを伝えているということです。<br />
<br />
僕たちは、日常の中に埋没していると、今の自分が選択している「生きかた」以外には、合理的なものはないと考えてしまう傾向があると思います。ある意味で、これは「自分は正しい、他者は間違っている」と信じたい、人間の弱さです。<br />
<br />
意地悪くいうなら、だれか他者のことを「合理的ではない」と感じるとき、僕たちは「自分は正しい、他者は間違っている」ということを確認して、安心しようとしているわけです。「自分が間違っているかもしれない」という不安から逃げたいという欲求があるからでしょう。<br />
<br />
ですが、そもそも生命というのは、かなり合理的なシステムです。つまり、それぞれに異なる「生きかた」をしている人間も、それぞれの環境において（できるだけ）合理的な選択をしようとしているはずなのです。<br />
<br />
本当は、自分が正しくて、他人が間違っているなどということは、そんなに存在していません。それぞれに異なる合理性（ロジック）を持っており「それぞれに（その環境においては）正しい」というのが正解だと思います。<br />
<br />
人間として成熟するということは、こうした無数にある合理性の背景を理解するということではないでしょうか。そして、みなが「正しくありたい」と、固定された環境の中で、苦しみもがいているのが人生であることを知るということではないでしょうか。ここに悲しさもあるわけですが。<br />
<br />
僕たちが「刺激になった」というとき・・・それは、人生には自分とは別の生きかたがあり、それも十分に合理的であると認めることができたという、自らの成長を意味しているのだと、今は考えています（間違っているかもしれません）。<br />
<br />
教育には、他者に対して「刺激を与える」という側面があるでしょう。<br />
<br />
それは「正しい生きかたは、自分の選択しているこれだ」と信じていたい人間に対して、他者の合理性（ロジック）を示すことで、本人がこれと信じる「正しさ」を揺さぶることにあると思います。<br />
<br />
その目的とするところは、優しい人間をつくるということであり、人間ではなくて、そうした人間を生み出してしまう環境のほうを憎むという態度を育むことでもあるでしょう。<br />
<br />
なんだかよく解りませんが、そんなことを考えました。<br />
<br />
（今日も一日、がんばりましょう！）<br />
寝てる<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201402/18/05/c0071305_641489.jpg" alt="_c0071305_641489.jpg" class="IMAGE_MID" height="414" width="500" /></center><br />
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<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>「伝える」という絶対。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nedwlt.exblog.jp/20604428/" />
    <id>http://nedwlt.exblog.jp/20604428/</id>
    <issued>2013-08-09T22:53:00+09:00</issued>
    <modified>2013-08-09T23:18:19+09:00</modified>
    <created>2013-08-09T22:53:02+09:00</created>
    <author><name>NED-WLT</name></author>
    <dc:subject>時事評論のまね</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[僕たちには、家族や親友のように、とても大切な人々がいます。そこには優先順位など付けがたく、とにかく、少しでも多くの時間を、そうした大切な人々と過ごしたいと考えています。<br />
<br />
しかし、生きていくことの難しいところは、そのような大切な人々との時間が、仕事や勉強の時間に奪われてしまうことです。また、たとえ仕事や勉強の時間によってではなくとも、家族や親友の数が増えてくると、その全員と、それぞれに濃密な時間を過ごすということも不可能になっていきます。<br />
<br />
こうした、大切な人々との時間がバラバラになり、かつ、短時間化していくということは、多くの人を苦しめています。で、ここからが重要なところですが、この苦しみを解消するのは、単純に、時間配分を変更することではなさそうだ、ということです。<br />
<br />
ある日、僕は、マグロ漁船の出港を見送る人々の中にいました。<br />
<br />
マグロ漁船は、一度漁に出ると、1年以上もの間、出港した港に帰港することはありません。つまりマグロ漁船に乗船するということは、長期間にわたって愛する家族や親友と会うことができないということです。<br />
<br />
僕は、マグロ漁船の出港、すなわち「お別れ」の瞬間に立ち会いました。そこで見た、今まさに運命によってバラバラにされようとしている人々の姿は、僕の予想を裏切って、決して悲壮なものには感じられなかったのです。当然、別れを悲しんでいるとは思うのですが、なんというか、とても幸せそうに見えました。<br />
<br />
船上で準備に余念のない、力強くかっこいいお父さんたち。見送りにやってきた多くのご家族、ご友人たちの笑顔。美しく風に流されていく紙テープの束。そして、そこにいる皆を勇気づける、メガホンを通した別れのスピーチ・・・。<br />
<br />
もちろん、仕事や勉強が忙しくて、大切な人と過ごす時間が少ないということ自体は、良いことではありません。特に、そうした大切な人々が病気や困難を前にして弱っているときは、できるかぎりの時間を、大切な人々のために割くべきでしょう。<br />
<br />
だからといって、ただ仕事や勉強をやめて、そのような大切な人々と「常に」一緒にいる状態が理想的かというと、そうでもなさそうです。定年退職後の夫婦生活というのが、必ずしもハッピーなものばかりとはいえないあたりに、このヒントがあるように思います。<br />
<br />
何がポイントなのかというと、それは、自分が相手のことを、とても大切に思っていることを「伝える」ということだと思います。<br />
<br />
いかに一緒の時間を過ごしてはいても、喧嘩ばかりしていては意味がありません。お互いのことをお互いが大切に思っていることが相互に伝わらなければ、一緒にいたとしても、余計に苦しむことになります。<br />
<br />
逆に一緒にいられる時間は短くても、相手のことを大切に思っていることを、双方が伝えられているなら、人間はそれぞれ、元気に生きていけると思います。<br />
<br />
大切な人々との時間がバラバラになり、かつ、短時間化していくことに苦しんでいるとするなら、まずは、その苦しみ自体を、ストレートに相手に伝えるべきだと思います。<br />
<br />
その苦しみ自体が、自分が相手のことを大切に思っているという本心を示しています。だから、お互いにその苦しみを伝えあうだけでも、苦しみそのものが減るのを実感できるはずです。<br />
<br />
僕が、マグロ漁船の出港に見たのは、皆が、誰かを本気で愛しているという事実でした。別れに際して、人々が、お互いの苦しみに深い共感を示し合うという奇跡の瞬間です。<br />
<br />
そんなわけで、今の僕は「あなたのことが、自分にとって、とても大切です」というメッセージを発信し、相手にそれを理解してもらうことのほうが、ただ一緒にすごす時間を長くすることよりも、ずっと重要だと考えているわけです。<br />
<br />
（今日は早く寝ます）<br />
ある日、気仙沼にて<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201308/09/05/c0071305_22515521.jpg" alt="_c0071305_22515521.jpg" class="IMAGE_MID" height="343" width="500" /></center><br />
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<br />
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<br />
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<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>白と黒の話。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nedwlt.exblog.jp/20539367/" />
    <id>http://nedwlt.exblog.jp/20539367/</id>
    <issued>2013-07-23T21:43:00+09:00</issued>
    <modified>2013-07-24T06:50:41+09:00</modified>
    <created>2013-07-23T21:42:48+09:00</created>
    <author><name>NED-WLT</name></author>
    <dc:subject>時事評論のまね</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[必死になって、目の前の仕事に取り組むとき、僕たちには充実感が与えられます。こちらを「白」としましょう。<br />
<br />
しかし同時に、そうした日々の仕事を「まるで意味のないこと」という具合に切り捨てようとする自分もいます。これを「黒」とします。<br />
<br />
まず、ただひたすらに「白」で生きるような状態は、自分の人生に疑問を持たないということでもあり、きつくいえばバカです。<br />
<br />
では、だからということで、無理やり暗い文学に浸るような「黒」だけで生きるのは、たった一度の人生がもったいないでしょう。こちらも、バカと言わざるを得ません。<br />
<br />
だからということで、白と黒を合わせて「灰色」で生きればよいのかというと、それも違います。「灰色」であるということは、ウジウジと悩みながら仕事をするということであり、それでは仕事の成果がでるはずもありません。<br />
<br />
成果の出ない仕事を楽しめる人間などいませんから、こうした「灰色」はいずれ「黒」に近づいていくでしょう。これまたバカというわけです。<br />
<br />
思想家の浅田彰は、26歳のときの著作で、次のように述べています。<br />
対象と深くかかわり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境地であることは、いまさら言うまでもない。簡単に言ってしまえば、シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである。 <br />
浅田彰『構造と力』p.6より<br />
まず僕たちは、仕事であれ勉強であれ、目の前にあるものごとに全面的に没入する必要があります。つまり「白（ノリ）」であることを否定して、生きていくことはできないわけです。しっかりやることから逃げて、人生はないということです。<br />
<br />
しかし同時に、僕たちはそうした自らを否定できるだけの「黒（シラケ）」を抱えていなければ、それはロボットの人生であり、人間として成長していくことはできないように思います。<br />
<br />
浅田彰は、このように、白と黒を混ぜることなく合わせ持ち、その緊張の中にあることを「知」と呼んだのです。なんと優れた洞察でしょう。<br />
<br />
僕は最近、この洞察に、ちょっとした追加をしています。それは、このような白黒は、より高次の白黒を得ることでしか解消できないということです。<br />
センスや運、一夜漬けで勝利を手にしてきた人間は勝負弱い。僕はこれまで頭の回転が速く、要領が良く、勢いに乗っていると思われる人間と何度も戦ってきたが、ただの一度も負ける気はしなかった。それはなぜか。彼らと僕とでは迷ってきた量が圧倒的に違うからだ。 <br />
梅原大吾『勝ち続ける意志力』p.59より<br />
学校は楽しい（白）という気持ちと、学校なんて行きたくない（黒）という気持ちは、どちらも真実でしょう。ですから、学校は通うに値するかということについて白黒をつけてしまうことは「知」とは言えません。<br />
<br />
しかし僕たちは学校を卒業し、あらたに、仕事をしっかりこなそう（白）という気持ちと、こんな仕事はつまらない（黒）という気持ちの緊張を得ることになります。このとき、学校は通うに値するかという緊張が終わっていることが面白いです。<br />
<br />
仕事のスケールが大きくなって行くにつれて、過去の低次元な緊張はどうでもよくなります。より解消の難しい白黒の緊張が得られるからです。<br />
<br />
自分がお茶をだすべきか、そんな仕事は自分の仕事ではないとつっぱねるべきか。売れなくてもやるべきか、売れないから止めるべきか。従業員に高い給与を出すべきか、人件費を抑えて利益を確保すべきか。自社の利益を優先させるべきか、困っている人々を助けるべきか。<br />
<br />
白黒のはざまで緊張を感じながら生きること、そして緊張そのものをより高次なものとしていくことが、人間として成長していくということなのではないでしょうか。<br />
<br />
これと同じことを表現した言葉に「清濁併せ呑む（せいだくあわせのむ）」というものがあります。これは、清濁を「混ぜて」飲むという意味ではありません。本来は、清流も濁流も、どちらも受け止める海のありかたを表現した言葉です。<br />
<br />
人間のすごさは、清濁併せ呑む海のように、白黒の矛盾をそのままに受け止めることができることです。白と黒をそれぞれ丁寧に掘り下げて、その緊張に眉を曇らせる姿こそ、人間なのです。<br />
<br />
一切の決断をするなということではありません。ただ言いたいのは、安易に白黒の決着をつけたくなるとき（緊張から逃げたくなるとき）こそ、僕たちは「知」とはなにか思い出してみるべきだということです。<br />
<br />
（原稿も書いていますよっ！）<br />
パパの料理、会心の一撃！<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201307/23/05/c0071305_21394073.jpg" alt="_c0071305_21394073.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
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<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>ワールドカップに「一線を越える」ことの意味を見る</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nedwlt.exblog.jp/20322203/" />
    <id>http://nedwlt.exblog.jp/20322203/</id>
    <issued>2013-06-04T21:45:00+09:00</issued>
    <modified>2013-06-04T23:35:59+09:00</modified>
    <created>2013-06-04T21:45:20+09:00</created>
    <author><name>NED-WLT</name></author>
    <dc:subject>時事評論のまね</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[ワールドカップ、決まりましたね！ひところは、日本がワールドカップに行くなんて夢のまた夢だったわけです。これが今となっては、ワールドカップ行きが決まっただけでは、それほど喜べなくなりました（いや、嬉しいんですけどね）。<br />
<br />
これ、ちょっと不思議です。<br />
<br />
今の日本代表チームの実力が、昔よりも高まっているというのはあるでしょう。しかし、日本のワールドカップの初出場は1998年と、まだ15年前のことにすぎません。しかも1998年のワールドカップでは、日本はグループHで3連敗し、勝ち点ゼロでした。<br />
<br />
15年間で急速に成長したわけです。で、僕は、この成長の背景にあるのはサッカーのテクニック向上だけではないと思っています。もちろんテクニック向上があったことは確実であり、選手たちの恐ろしいまでの努力があることは当然です。しかし、もう一つ重要なことがあると思うのです。<br />
<br />
それは「一線を越える」という体験です。<br />
<br />
「1998年にワールドカップに行けた」という事実は、日本のサッカー選手たちに、日本のレベルはワールドクラスであることを自覚させたはずです。色々と改善点はあるものの、日本のやり方が世界に通用するということが証明されたことは、非常に大きかったのではないかと思います。<br />
<br />
「乗れなかった自転車に乗れるようになったようなもの」と言えば伝わりやすいでしょうか。あるいは「過去に一人も東大合格者を出していない高校」と「たった一人であっても東大合格者を出したことのある高校」との間には、大きな差があるというほうが良いかもしれません。<br />
<br />
こうした差を生んでいるのは「努力が報われたという事実のあるなし」であり、それは「一線を越える」ということです。より正確には、自己効力感（self-efficacy）を形成するための達成体験があるかどうかです。<br />
<br />
奇跡というものは、実際にそれを起こしてみれば「こんなものか」と感じられるものです。そして一度それを起こした人は、以降、同じ程度の奇跡であれば何度でも起こせるようになるのだと思います。<br />
<br />
人間の非連続な成長には「努力によって、奇跡を起こす体験」が必要であり、僕たちはそれを、こうして4年に一度のワールドカップ予選で思い出すことができます。そして今の日本人が期待している、日本サッカーの次なる奇跡とは・・・<br />
<br />
（本戦、期待しています！）<br />
日本の奇跡<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201306/04/05/c0071305_21421044.jpg" alt="_c0071305_21421044.jpg" class="IMAGE_MID" height="373" width="500" /></center><br />
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]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>死ぬほど笑うための3つの条件</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nedwlt.exblog.jp/19946063/" />
    <id>http://nedwlt.exblog.jp/19946063/</id>
    <issued>2013-04-29T13:03:00+09:00</issued>
    <modified>2013-04-29T13:25:01+09:00</modified>
    <created>2013-04-29T13:03:40+09:00</created>
    <author><name>NED-WLT</name></author>
    <dc:subject>時事評論のまね</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[誰もがいつか「人生の終わり」を迎えます。そのとき人は、自分の人生を振り返り、色々と思い出すことになるでしょう。<br />
<br />
思い出すのはきっと喜怒哀楽の感情、すなわち心が大きく動かされたことだと思います。できればそれらは、死ぬほど笑った経験だと嬉しいです。<br />
<br />
僕の人生にも、いくつか、死ぬほど笑った大切な記憶があります。そして昨晩また1つ、その記憶が増えました。それを振り返りつつ、人が死ぬほど笑うための条件を、ここに整理しておきたいと思います。<br />
<br />
１．充実をともなう疲労を抱えていること<br />
<br />
疲労によって思考レベルが下がっている、判断力が弱まっている必要があると思います。疲労によって思考が止まると、人はこの世界を「頭」ではなくて「心」で観察するようになるからです。<br />
<br />
このせいで、普段はなにも感じないようなことが、いちいち心を揺さぶるようになります。感情が覚醒し、まるでこの世界が、喜怒哀楽だけでできているかのような感覚にとらわれます。<br />
<br />
このときの疲労は、なんでも良いというわけでもなさそうです。「何かを成しとげた」という充実感を背景にしているとき、それは「笑い」につながると思います。ですが充実感を背景にしていないと、それは「涙」になりそうな気がします。<br />
<br />
２．信頼できる人々とともにあること<br />
<br />
笑い転げるということは、とても無防備になることです。もはや虚勢をはる必要がない、何かを競っているわけでもない人々でないと、無防備な自分をさらけだすための「安心感」が得られないでしょう。<br />
<br />
逆に言えば、無防備でカッコ悪い自分を見せることができるということが、人を信頼するということなのかもしれません。疑い深い人のほうが失敗は少ないでしょうが、そのぶんだけ死ぬほど笑う経験が得られにくいという大きなマイナスがありそうです。<br />
<br />
そして笑いがピークになるためには、自分以外の誰かが笑っているのを見る必要があると思います。笑いは伝染し、らせん階段を登るようにして、止められない笑いに向かっていくからです。<br />
<br />
３．自らを笑いのネタにできるピエロが存在すること<br />
<br />
自分を笑ってもらうことに喜びを感じる人というのは、人類の宝だと思います。ボケとツッコミであれば、ボケのほうがずっと価値が高いと、個人的には思います。<br />
<br />
過去『人に笑われる喜び。』というエントリでも書きましたが、自分が人に笑われること、自分が人を笑わせることは、周囲を明るく元気にします。<br />
<br />
また、誰かが人を笑わせようとしているときは、その心意気を「ありがたいもの」としながら、積極的に楽しもうとする態度を示せることが「社交性」のエッセンスでしょう。<br />
<br />
●言いたいこと<br />
<br />
こうして振り返ってみると、ランニングや登山のサークル、NPOや地域社会貢献活動が人になにを与えているのかが見えてきます。そして理想的には、これを普段の仕事の中にこそ得たいわけです。<br />
<br />
この週末、僕は、経営がなにを目指すのか、そこに集う社員たちの期待に応えるとはどういうことなのかを考えるヒントを得たような、そんな気がしています。<br />
<br />
人は1人では生きられません。仮に、人生の本質が「孤独」であるにせよ、人は「孤独が消滅してしまう瞬間」を味わうことができます。これを認識していれば、人は「孤独」を怖がらないようになると思うのです。<br />
<br />
桜咲く気仙沼にて<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201304/29/05/c0071305_1259851.jpg" alt="_c0071305_1259851.jpg" class="IMAGE_MID" height="372" width="500" /></center><br />
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  <entry>
    <title>「尊敬できない年上」は何を意味するのか。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nedwlt.exblog.jp/19750435/" />
    <id>http://nedwlt.exblog.jp/19750435/</id>
    <issued>2013-03-28T23:27:00+09:00</issued>
    <modified>2013-03-29T10:49:36+09:00</modified>
    <created>2013-03-28T23:27:35+09:00</created>
    <author><name>NED-WLT</name></author>
    <dc:subject>時事評論のまね</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[今から5年ほど前、梅田望夫さんの「自分より年上の人に会わない」という宣言に出会いました。それ以来、僕の中で何かが変わったという実感があります。実際、今、僕の「仲間」と言える人の多くは年下です（いや、例外はありますよ）。べつに先輩風を吹かせたいからではありません。単に、そのほうが面白いからです。<br />
<br />
あれから５年、そんな状況にはあまり疑問を抱かずに過ごしてきました。でも最近、ちょっと気がついたことがあります。それは、なぜ今、年上であることのアドバンテージが失われつつあるのかということです。<br />
<br />
考えてみたのは「人類の歴史の中で、年上であることのアドバンテージが失われた時代は、現代以外にも存在するか」という命題です。<br />
<br />
●他者に対するアドバンテージの源泉<br />
<br />
だいたいの時代において（社会階層を固定すれば）年上であるということは、それだけで価値のあることだったはずです。なぜなら年上は、豊富な人生経験をもってして、年下に有益なアドバイスができたからです。そう、普通の時代には。<br />
<br />
安全な食べ物、安全な場所、病気への対処、子育ての方法、狩猟や漁の方法、種まきの時期、収穫の方法、踊り方、歌い方、言葉の使い方、ビジネスのやりかた・・・生きるための知恵、楽しむための知恵、そしておそらくは戦いの知恵まで含めて、人類はほとんどの時代、年上が年下に知恵を伝えてきたわけです。<br />
<br />
他者に対するアドバンテージの源泉とは、役に立つ知恵の蓄積です。そして、人類史上においては、多くの時代、役に立つ知恵は年齢とともに増えていく傾向があったわけです（注１）。<br />
<br />
●年齢が不利になるとき<br />
<br />
であれば、現代のように年上であることのアドバンテージが失われる時代とは「年上である」というだけでは、有益なアドバイスができない時代ということになります。それは、次々と新しい知恵が生まれ、それによって過去の知恵が上書きされてしまうような状況下においてしか発生しないでしょう。<br />
<br />
僕が、この条件で思いついた時代は、人類史上、言語が発明されたとき・・・それだけです。程度の問題で、農耕の発明や文字の発明などもこれにあたる可能性がありますが、レベルが違うと思います。<br />
<br />
言語が発明（注２）される以前に生まれた人の知恵は「見よう見まね」で伝達されたはずです。これに対して、言語が発明された後に生まれている人の知恵は、言語によって伝達されたわけです（あたりまえですが）。<br />
<br />
「見よう見まね」による知恵（暗黙値）の伝達に対して、言語による知恵の伝達（形式知）は、知恵の伝達効率が高くなります。単位時間あたりの知恵の伝達量が多いのは言語が発明された後の世代ですから、残酷なことに、言語を使える世代は、言語を使えない世代の知恵を軽々と乗り越えて行くことになったでしょう。<br />
<br />
●現代を考える<br />
<br />
現代は、僕の意見では、人類史上、言語の発明に匹敵する巨大なイベントが進行している最中です。このイベントがまだ進行中であり、終着点に至っていないと結論づける根拠は、まだ生まれていない子供のほうが、既に生まれてしまっている人間よりも有利であることが疑えないことにあります。<br />
<br />
そう言い切れるのは、ITの発展を牽引する半導体の処理能力が、まだ、理論限界に達していないからです。たとえば、満足に使える自動翻訳機や自動プログラミングマシンはまだ出現していません。時間の問題ではありますが、そうしたキラーデバイスがまだ出現していない以上、この変化はまだ終わっていないと考えるべきでしょう。<br />
<br />
遠くない将来、高性能な自動翻訳機や自動プログラミングマシンがあたりまえに使える社会に生まれてきた子供は、それ以前の人間が苦労して体得した英会話やプログラミングのスキルなどを「まったく意味のないこと」と認識するでしょう。それでも僕たちは、英会話やプログラミングを学ばざるを得ない「今」を生きているのです。ああ、なんということでしょう！<br />
<br />
●「ゆとり世代」なんていない！<br />
<br />
「ゆとり世代」という言葉があります。これは、年上が年下を卑下する言葉です。でも、ここまでの話を前提とすれば、そこにいかなる名前をつけようとも、巨大な変化の時代を有利に生きられるのは年下の世代であって、年上ではありません。<br />
<br />
「ゆとり世代」という言葉の裏にあるのは、自分がこの変化についていけないという恐怖ではないでしょうか。解らないことは怖いという、本当はそれだけのことだと思うのです。だって「ゆとり」を犠牲にして得て来たスキルが全部無駄になるなんて、誰も信じたくありませんから。<br />
<br />
でも、今まさに、日本のお家芸だった半導体技術はコモディティー化し、東大の大学院で半導体の基礎技術を学んだ人材が、事実として職を失い、路頭に迷っているわけです。この日本には「ゆとり世代」がいるのではなくて、「ゆとりのない世代」がいるだけです。<br />
<br />
●この変化はいつ終わるのか<br />
<br />
巨大な変化が続く限り（個別に世代を超えて優秀な人材がいるということを除けば）年上は年下に勝てません。では、こうした年上が尊敬できない状態、すなわち、巨大な変化は、いつまで続くのでしょう？<br />
<br />
僕の意見では、それは2025年ぐらいまで続きます。これは、今の変化を根本で支えている半導体の技術革新が「止まる」時まで、という意味です。<br />
<br />
今の半導体技術は、電子が走るための導線を細くして、半導体そのものを小さくしていくという発想に支えられています。特に「ムーアの法則」と呼ばれるもので、半導体の集積度は、およそ18ヶ月ごとに倍になっています。コンピュータの処理能力の発展、すなわちこの巨大な変化を支えているのは、この半導体技術なのです。<br />
<br />
でも「ムーアの法則」には終わりがあります。なぜなら、電子が走る導線も、電子そのものに破壊されてしまう（断線が起こる）ときが来るからです。正確には「エレクトロ・マイグレーション」と呼ばれる現象で、電子の運動エネルギーによって、導線を構成する原子が、期待される特定の位置にいられないとき（物理限界）が必ず訪れます。<br />
<br />
それ以上は導線を細くすることができないし、これまでと同じ設計思想では、もはや半導体も小さくはなりません。そこで（いったんは）コンピューターの性能の成長は（ほぼ）止まることになります。これが、僕の予測では、だいたい2025年です。<br />
<br />
●尊敬される老人のはじまり？<br />
<br />
2025年以降に生まれる世代は、ただ年齢を重ねるだけで、後から生まれてくる世代よりも優れた知恵を蓄積できるはずです。これまで通りの人類史、困難はあっても将来不安の少ない、安定した時代のはじまりは、そこからでしょう。<br />
<br />
で、今を生きている僕たちは、残念ですが、年齢を重ねることでは、生き残るためのノウハウをためこむことは全くできない時代にあります。学んだことの多くはどんどん陳腐化し、ただ生きているだけでは、あれよあれよのうちに若い世代に抜かれていくことになります。<br />
<br />
少しでも若いほうが有利ですが、それでも、2025年以降の人類から、僕たちが年上だからということで尊敬されることは無いと思われます。だからと言って、だた一度の人生を生きる僕たちは、自分の歩みを止めることはできません。たとえ一生懸命体得したスキルが全く使い物にならなくなっても、次に求められる新しいスキルを学んでいくしかないのです。<br />
<br />
とはいえ、悲観しても仕方がありません。どうせなら、このジェットコースターをめいいっぱい楽しみたいものですね。<br />
<br />
（焼き肉、美味しかった！）<br />
<br />
（注１）年功序列は日本だけのことと信じられるケースもありますが、欧米であっても、年齢と賃金水準には正の相関があることが示されています（たとえば『企業経済学』小田切宏之著など）。<br />
<br />
（注２）言語の発明がどのようになされたのかは全く解っていないし、言語は長い時間をかけてゆっくりと獲得されたとする連続性理論が正しい場合は、この例は適切ではありません。短期的に獲得されたとする非連続性理論が正しい場合のみ、この条件に当たります。余談ですが、僕は、個人的に非連続性理論を信じています。<br />
<br />
にゃーん！<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201303/28/05/c0071305_23988.jpg" alt="_c0071305_23988.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
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  </entry>
  <entry>
    <title>これからの世界を、すごくシンプルに考えると。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nedwlt.exblog.jp/19433965/" />
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    <issued>2013-02-26T21:51:00+09:00</issued>
    <modified>2013-02-26T21:56:49+09:00</modified>
    <created>2013-02-26T21:51:18+09:00</created>
    <author><name>NED-WLT</name></author>
    <dc:subject>時事評論のまね</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[これからの世界について考えています。その中で、元東大総長の小宮山宏先生のコラムにある3つの視点に頭を打ち抜かれました。整理しながら、この3つの視点について、僕なりの考えをまとめてみます。<br />
<br />
●3つの視点とは？<br />
<br />
視点１．知の爆発<br />
<br />
インターネット上を流れる情報量は、2001～2009年の間に71倍に激増しています。ところが実際に人々に受容され消費される情報量は、同じ8年間で2.5倍程度と停滞しています。情報が多すぎるのです。それでも、情報は今後も増え続けるでしょう。<br />
<br />
視点２．有限の地球<br />
<br />
地球の資源は有限です。いうなれば、酸素ボンベみたいなものです。それを人類の皆でシューシューやってきましたが、いよいよ残りわずかです。環境汚染や地球環境の変化によって、人が生きるコストも今後上がって行くということです。環境を消費してまで、特定の商品を製造することに「待った」がかかるようになるはずです。<br />
<br />
視点３．高齢化<br />
<br />
人類は、多産多死（たくさん生まれて、たくさん死ぬ）社会から、少産少子社会へと転換しました。この切り替わりの途中には、子供と老人が少なくて、労働力が豊富にある「人口ボーナス」と呼ばれる時期があり、そこでは経済発展が期待できます。しかし、これからの世界では、そうした時期が終わり、経済発展が見込みにくくなります。<br />
<br />
小宮山先生は、人類が直面している様々な問題の背景には、この3つの視点のどれかが存在すると述べています。ここに新しい需要を見出すことで、日本の未来に活路を生み出そうというお話です。うーん、小宮山先生すごい。<br />
<br />
●まず、思いついたこと<br />
<br />
思いついたのは「知の爆発」は「有限の地球」と「高齢化」を解決するための手段であり、人類に残された最後のチャンスではないかということです。<br />
<br />
これからのビジネスの多くは「知の爆発」を制御し、その成果として「有限の地球」と「高齢化」の問題を解決するというモデルに沿っていない限り、長続きしないでしょう。いや、そうなっていないと、人類がダメになってしまいます。ですから「知の爆発」を制御する力こそ、教育の要になりそうです。<br />
<br />
なるほど「有限の地球」と「高齢化」に関連する、より具体的な課題を発見する力も重要です。しかし、こうした課題の発見自体が「知の爆発」の中で行われます。ですから「知の爆発」を制御できなければ、有効な課題設定も、解決策の策定も、どちらもままならないわけです。<br />
<br />
近年「知の爆発」に対しては、情報を収集・整理して届けてくれる人という意味での「キュレーター」に注目が集まっています。ただ個人的には、これからの時代に収集・整理すべきなのは、もはやニュースではないように思うのです。<br />
<br />
それは、学問領域を超える、学際的な学問の「キュレーター」なのではないかと。そして、自らがそのような「キュレーター」にならなければ、少なくともビジネスにおいては、差別化がきかず、どうにもならない未来が見えます。<br />
<br />
●この時代に活躍できる人材の要件とは？<br />
<br />
まずは自らが、なんらかの学問領域において、専門性を獲得することが大切になりそうです。軸がないままに、様々な学問の表層だけをすくい上げても、細部が理解できるようにはならないからです。<br />
<br />
もう少し抽象化すると、専門性とは、研究者たちの実績として生み出される先行文献（論文・特許）を、過去のものも、最新のものも含めてフォローできる、しているということでしょう。また当然、自身もその専門領域の発展に貢献していないとなりません。とはいえ、これだけでは不十分です。<br />
<br />
これに追加される要件として「有限の地球」と「高齢化」のどちらかの領域においても相当な知識を持っている必要があると思います。軸となる自らの専門性を持って「有限の地球」と「高齢化」のどちらかの具体的な問題を解決する必要があるからです。<br />
<br />
ということは、これからの教育に求められるのは「有限の地球」と「高齢化」に関する知識を鍛えつつ、これとは別に、なんらかの学問分野における専門性を鍛えるといったことなのかもしれません。なんとなくですが、見えてきたように感じます。・・・おそらくは、見えてきたのではなくて、単に歳をとったということなのでしょうが（笑）。<br />
<br />
（本を読んでから寝ます）<br />
空に向けた目線<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201302/26/05/c0071305_21442112.jpg" alt="_c0071305_21442112.jpg" class="IMAGE_MID" height="332" width="500" /></center><br />
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<br />
]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>動物園のライオン、サバンナのネズミ。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nedwlt.exblog.jp/19314112/" />
    <id>http://nedwlt.exblog.jp/19314112/</id>
    <issued>2013-02-20T00:05:00+09:00</issued>
    <modified>2013-02-20T00:09:45+09:00</modified>
    <created>2013-02-20T00:04:48+09:00</created>
    <author><name>NED-WLT</name></author>
    <dc:subject>時事評論のまね</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[最近、僕はタイトルとした「動物園のライオン、サバンナのネズミ」という表現をよく使います。講演会やセミナーではもちろん、ちょっとした口癖として、そこかしこで発しています。<br />
<br />
背景には、社会構造が大きく変わりつつある今、サラリーマン的な考え方をしていては生き残れないという危機感があります。<br />
<br />
ここで言うサラリーマン的であるとは、毎日言われたことさえやっていれば、毎月決まった日に給与が振り込まれる環境に「慣らされている」といった意味です。ちょうど、日々決まった時間にエサをもらい、衛生面にもめぐまれた、動物園の動物のように。<br />
<br />
別に脅しではなく、新卒の時点で、いかに優秀な「ライオン」であったとしても、長年、動物園のような環境で暮らしてしまえば、野生の世界、すなわち個人で戦う競争社会では生き残れないと思うのです。<br />
<br />
逆に、たとえ「ネズミ」にすぎない能力しかなくとも、自らの糧を、自らの力で勝ち取って生き残ることに慣れていければ、どうにかなると考えています。<br />
<br />
自分自身に対しても問いたいのは、今、自分のもらっている給料は、本当に、それだけの付加価値を出した結果として得ているのかということです。<br />
<br />
そうしたことを日々自問自答しながら、自分の付加価値を出来る限り高めようとしているのかどうか。サバンナに生きようとしているのかどうか。<br />
<br />
リスクを計算して、ただ低いリスクのほうに向かうということは、なにかを選ぶということではありません。この方法で結果として行き着くのは、やはり動物園だからです。<br />
<br />
<br />
生きるということは、そもそもリスキーなことです。もちろん、無駄なリスクを取る必要はありません。しかし、リスクからただひたすら逃げるということは、すなわち、自分の人生から逃げるということにはならないでしょうか。<br />
<br />
なお、野生のアフリカ象の寿命は56歳ですが、動物園のそれは17歳だそうです。<br />
<br />
（久しぶりに、自由に書く喜びを味わっています）<br />
ある冬の日の記憶<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201302/20/05/c0071305_033086.jpg" alt="_c0071305_033086.jpg" class="IMAGE_MID" height="334" width="500" /></center><br />
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]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>消費者が終わり、生産者がはじまる。</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nedwlt.exblog.jp/18980049/" />
    <id>http://nedwlt.exblog.jp/18980049/</id>
    <issued>2012-12-09T19:22:00+09:00</issued>
    <modified>2012-12-09T19:38:40+09:00</modified>
    <created>2012-12-09T19:23:16+09:00</created>
    <author><name>NED-WLT</name></author>
    <dc:subject>時事評論のまね</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[およそ9年にわたるオランダ生活に終止符を打ってから、早4年がたとうとしています。帰国するときに決めたのは、僕は、この残りの人生を「ヒトの学習と成長」というテーマにかけるということでした。<br />
<br />
その後、ビジネスの現場で人材育成の実務にどっぷりとつかりつつ、本を書いたり、大学や企業で講演をしたりしながら、徐々に見えてきたことがあります。それは、ヒトの成長には「なにかを生産すること」が欠かせないということです。<br />
<br />
ところが、現代社会というところは、生産よりも消費を中心に動いているように思います。実際、Googleで「消費者」を検索すると約84,900,000件がヒットしますが「生産者」ではこれが約11,400,000件と、およそ7分の１程度まで減少します（あくまでも言葉が使われる回数の話ではありますが）。<br />
<br />
僕たち現代人が将来に不安を感じるとき、その不安は「消費ができなくなるのではないか」という恐怖に直結しているでしょう。でもなぜか「生産できなくなるのではないか」という恐怖は、自分の奥底を見つめても出てこないのです。<br />
<br />
ここに僕は、奇妙な逆転を感じます。<br />
<br />
本質的には、僕たちはなにかを生産するからこそ、その対価を得ることができるわけです。そしてその対価があればこそ、なにかを消費するということも可能になるのでしょう。ですから「消費ができなくなるのではないか」という恐怖は、そのルーツをたどれば「生産できなくなるのではないか」という恐怖に行きつくはずなのです。でも、そうなっていない。<br />
<br />
なるほど、現代社会はモノあまりというわけで、なにかを生産することの価値が急激に下がっていると考えることも可能です。また、そもそも食料を中心として、消費さえできれば生命維持もできると言えばできます。しかしどうも、本質はそこにはないような気がします。<br />
<br />
僕は今、現代人を不安にし、現代人から成長を奪っているのは「より優れたものを消費できることのほうが、より優れたものを生産できることよりも素晴らしい」という、近代のマーケティングによって作られた価値観ではないかと考えています。<br />
<br />
そしてそうした価値観は古くなりつつあり、今まさに、その生命を終わろうとしているような気がするのです。理由は比較的単純で、これからの厳しい経済環境を考えるに、高価なものを消費することの難易度が上がり、話題の書『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』でも述べられているとおり、生産することの難易度が極端に下がると思われるからです。<br />
<br />
僕たちは、とてつもなく大きな変化の中にあります。<br />
忘年会<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201212/09/05/c0071305_19162828.jpg" alt="_c0071305_19162828.jpg" class="IMAGE_MID" height="299" width="500" /></center><br />
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]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>抽象化スキルが、生死を分ける時代に</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nedwlt.exblog.jp/18463890/" />
    <id>http://nedwlt.exblog.jp/18463890/</id>
    <issued>2012-09-17T18:08:00+09:00</issued>
    <modified>2012-09-18T11:14:38+09:00</modified>
    <created>2012-09-17T18:08:48+09:00</created>
    <author><name>NED-WLT</name></author>
    <dc:subject>時事評論のまね</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[僕が尊敬する友人の言葉に「抽象化スキルは、経験の再利用性を高める」というものがあります。<br />
<br />
この言葉だけで、この厳しい時代を生き残るのに必要なことの（ほとんど）全てが語れているのですが、以下、自分のために、この言葉が語られる背景をエントリにしてみます。長文です。<br />
<br />
●これからの時代<br />
<br />
ネット社会は「誰がどこに住んでいるか」ということを不問とします。どこに住んでいようとも、世界中の人々とコンタクトができるようになるからです。これは、様々な分野において、距離の意味が薄れるということを意味しています。<br />
<br />
そうした中、特にサービス産業においては「特定の職務経験を持った人材がどこに住んでいるか」によって仕事のマッチングが行われた時代は終わろうとしています。<br />
<br />
ネット社会において問われるのは「特定の職務経験」があるかないかだけです。その人がどこに住んでいるかに関係なく、どこからでも仕事の依頼をすることができるようになります（注1）。<br />
<br />
結果として「どこに住んでいるか」ということで、これまで、なんとか仕事を得ることができていた人たちが「特定の職務経験」のレベルをグローバルに比較されるようになります。<br />
<br />
そうなれば、ワールド・クラスの人のところに仕事が集中し、多くの人が今の職を失うことになるでしょう。僕たちは、社会の変化に合わせて新たに生まれる仕事に合わせ、積極的に新しい職務経験を積んでいかなければなりません。<br />
<br />
●やったことのない仕事の職務経験が求められる<br />
<br />
次々とイノベーションが起こり、競争が激化する社会においては、特定の仕事における職務経験の価値は、時間とともにどんどん減っていきます。<br />
<br />
今は安泰に思える仕事であっても、それは突然、地球の裏側にいる人によって奪われたりするわけです。そうした社会では、誰もが、次々と新しい仕事にチャレンジしていかなければならないでしょう。<br />
<br />
でも、仕事を得るために求められるのは、いつだって、その仕事において何らかの業績を残してきたという職務経験です。ネット社会では「やったことのない仕事の職務経験」が求められてしまうとするなら・・・。<br />
<br />
これが、これからの失業問題の解決を難しくし、失業期間を長期化させる根本的な原因となるでしょう。<br />
<br />
●座学では（おそらく）この問題を解決できない<br />
<br />
この失業問題への対策として、各国政府（特に、新興国に仕事を奪われる先進国）は、職業訓練のプログラムを充実させていくと思われます。<br />
<br />
ただ、政府としても、多くの失業者を少ない予算でトレーニングすることになるので、コスト面の理由から、プログラムはどうしても座学が中心となると予想されます。<br />
<br />
ところが、大人の学習はその70％が職務経験から、20％が他者の観察やアドバイスから、そして最後の10%が研修や読書といった座学から得られているという研究者たちの報告があります（注2）。<br />
<br />
座学ではなくて、インターンに近い形の「職務経験」が得られる職業訓練プログラムでないと、効果が出ない可能性があるのです。もちろん、座学「も」重要ですが、それは直接には、これからの時代の失業問題を解決しないと考えるべきでしょう。<br />
<br />
●生死を分けるスキルとしての抽象化<br />
<br />
そんな時代でも「やったことのない仕事の職務経験」が求められるような、一見矛盾した状況に適応する人材が出てくると思います。僕は、そうした人材に共通しているのは、抽象化スキルだと考えています。<br />
<br />
抽象化スキルとは、その対象となることがらより、特に注目すべき要素を抜き出しつつ、他は無視するというスキルです。これによって、物事の本質に迫ることができます。<br />
<br />
例えば、「マクドナルドでのアルバイト経験」ということを抽象化してみます。<br />
<br />
マクドナルドを構成する要素は「店舗において、顧客と直接対面しながら、ハンバーガーとドリンクを中心とした商材を売る外食ビジネス」であるとします。これを極端に抽象化すれば「外食ビジネス」になるでしょう。<br />
<br />
また、アルバイトを構成する要素は「会社都合でシフト管理されながら、与えられた仕事を遂行する存在」であるとします。これも極端に抽象化すれば「仕事」になります。<br />
<br />
「マクドナルドでのアルバイト経験」を「外食ビジネスでの仕事経験」だと考え、外食ビジネスのあるべき姿を理解しようと、書籍やネットで外食ビジネスについて座学をこなしながら日々を過ごせるかどうか。<br />
<br />
自分がマクドナルドではないレストランで食事をするときは、マクドナルドとの違いを意識しながら、なにか学べるところはないかと考えるクセがついているかどうか。<br />
<br />
このように、マクドナルドでのアルバイト経験から、外食ビジネスについての理解を深められる人材は、マクドナルド以外の外食において、アルバイトではない職を得られる可能性が高いでしょう。<br />
<br />
しかしそれを「マックでバイトしているだけ」と考える人材は、その枠から飛び出ることはできません。もっとミクロな視点でも、日々特定の問題を処理しながらも、問題解決方法を抽象化して考えられないと、似たような失敗を繰り返すことになってしまいます。<br />
<br />
「抽象化スキルは、経験の再利用性を高める」というわけです。経験の素因数分解をして、一見異なる多くの仕事のなかに、最大公約数を見つけていくという態度こそ、生死を分ける重要なものになるはずです。<br />
<br />
●抽象化スキルの鍛え方<br />
<br />
まず「自らの経験を文章として整える」ことが、そもそも抽象化です。たとえば日記（日報）は、その日起こったことの中で、特に重要だったことを要素として抜き出したものです。これ自体が抽象化のよいトレーニングであることは明らかでしょう。<br />
<br />
次に「なかまはずれを探す」という方法もよいでしょう。複数の事柄の中から、1つだけ他とは異なる事柄を探すということは、その1つ以外の他の事柄の中に「共通点」を見つけるという作業です。この「共通点」こそが、抽象化の結果として得られるものです。<br />
<br />
そして最も高度な抽象化のトレーニングは「比喩を生み出す」ということだと考えています。普段から周囲のものごとをたとえて話すクセをつけたり、読書をしながら優れた比喩に触れることが抽象化スキルを鍛えると思います。<br />
<br />
頻繁に発着する電車に、乗客が次々と吸い込まれていく状況をみて「駅」を「イモムシのレストラン」とたとえるとき、そこには、直感を伴った高度な抽象化スキルが働いています。<br />
<br />
こうした比喩（たとえ）というのは、ある事柄Aの中に含まれる本質的な要素が、高度に抽象化され、思いもよらなかった全く別のなにかBの中にも含まれていることに気づかされるからこそ面白いのです。<br />
<br />
最後にもう一歩だけ、この比喩の話を進めてみます。<br />
<br />
そもそも何故、僕たち人間は優れた比喩を「面白い」と感じるのでしょう。個人的には、僕たちの脳が、物事を抽象化して考えることを奨励しているからだと信じています。<br />
<br />
特定の環境に過剰に適応している者は、ちょっとした環境変化によって滅んでしまうという現象は、生物の世界において頻繁に観察されています。そして僕たち人間は、環境への過剰適応を避けてきたからこそ、進化を生き残っていることを忘れるべきではありません。<br />
<br />
抽象化とは、言ってみれば、特定の経験への過剰適応を避けるためにこそ必要となるスキルであり、それは本来、僕たち人間には「大切なスキル」として埋め込まれているはずなのです。<br />
<br />
●まとめ<br />
<br />
これからの時代、僕たちには「やったことのない仕事の職務経験」が求められるようになるでしょう。これは、普通に考えると無理なことのように思われます。<br />
<br />
しかし、僕たちが普段の仕事から得ている経験は、全く別の仕事にも再利用できる可能性があるのです。これを実現するために必要となるのは、抽象化のスキルです。<br />
<br />
抽象化スキルを鍛える方法としては（1）自らの経験を文章として整える（2）なかまはずれを探す（3）比喩を生み出す、という3つがあると考えています。<br />
<br />
そしておそらく、生物としての強さを決定づける「変化への適応力」とは、人間の場合、この抽象化スキルにほかならないのだと信じています。<br />
<br />
（おしまい）<br />
<br />
（注1）書籍であれば、例えば『ワーク・シフト』を参照ください。また、過去には同じテーマで『この変化は、優しくない。』というエントリを書いています。よろしければ、そちらも参照ください。<br />
<br />
（注2）「70:20:10の法則」とも言います。書籍であれば、例えば『「経験学習」入門』を参照ください。また、過去にはこの書籍の書評『経験から学ぶ力を、高めたい。』を書いています。よろしければ、そちらも参照ください。<br />
<br />
夏休みの記憶<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201209/17/05/c0071305_1803264.jpg" alt="_c0071305_1803264.jpg" class="IMAGE_MID" height="399" width="500" /></center><br />
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]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>「意味がわからない、バカじゃないの」と言う前に</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nedwlt.exblog.jp/18405880/" />
    <id>http://nedwlt.exblog.jp/18405880/</id>
    <issued>2012-09-01T11:35:00+09:00</issued>
    <modified>2012-09-01T11:44:32+09:00</modified>
    <created>2012-09-01T11:34:33+09:00</created>
    <author><name>NED-WLT</name></author>
    <dc:subject>時事評論のまね</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[他者の、なんらかの判断を見聞きしたとき、それに対して「意味がわからない、バカじゃないの」と感じることは、誰にでもあると思います。ただ、これは結構危険なことだと思ったので（自戒を込めて）エントリにしておきます。<br />
<br />
●その判断をした他人は、本当にバカなのだろうか？<br />
<br />
まず、そもそも「意味がわからない」という自分は、その判断に関わる分野について十分な知識と経験をもっているのでしょうか。仮にそうだとして、その特定の判断に必要な情報が何であるかを知っていて、それを理解しているでしょうか。<br />
<br />
人間は、自分の専門分野を超えた世界については、まず、正しい判断をすることができないものです。少しでも合理的な判断をするためにできることは、その分野の専門家の意見を集めることぐらいでしょう。<br />
<br />
他者の判断に「意味がわからない」と感じるとき、僕たちはまず、自分とその他者を比較して、その判断がなされた分野に対して、どちらのほうが土地勘を持っているかということを検討すべきだと思います。<br />
<br />
●他者のほうが土地勘を持っているとき<br />
<br />
この場合は「意味がわからない」のは自分のせいである可能性が高いです。そもそもこの世は、わからないことだらけです。だからこそ面白いのだと思いますが、それを「バカじゃないの」と切り捨てたら、もったいないと思います。<br />
<br />
今の自分には理解できないことに出会ったとき、その背景になっている理屈を「知りたい」と思う気持ちは、人の学習にとって大切なモチベーションです。この認識がないままに、他者をバカにするような態度ばかりを鍛えてしまえば、学習にとって大切なドライバーを失ってしまうでしょう。<br />
<br />
●自分のほうが土地勘を持っているとき<br />
<br />
こちらの場合は、他者が、自分が持っている知識と経験を持っていない可能性も高いです。ただし、ここには大きな落とし穴があります。もう一つの可能性として、そうした他者が、容易には入手できない「貴重な情報」を持っていることを疑う必要があります。<br />
<br />
たとえば自分が漁師だとして、自分がよく知っている海で、明らかに素人に見える人が、釣りをしていたとします。その人が釣り糸を垂れるあたりは、ほとんど魚がいない場所だとしたら、どう思うでしょうか。<br />
<br />
「バカだな、あんなところに魚なんていないのに」と思ってしまえば、そこで終了です。でも実は、その素人に見えた人は、数年に一度の限られた日にだけ、その場所に集まる魚類の研究をしている生物学者だったとしたら？<br />
<br />
●言いたいこと<br />
<br />
他者の判断に「意味がわからない、バカじゃないの」といった感情を抱いたときこそ、学習のチャンスです。自分がそうした他者と全く同じ立場にあれば、同じ判断をしたかもしれないという前提に立つことこそ、謙虚さの定義だと思います。<br />
<br />
その上で「その判断を合理的なものにできる情報」を、自分が知らないだけかもしれないという「不安」を持つべきでしょう。その「不安」を心のどこかにしまっておくからこそ、僕たちは、自分とは関係のない分野についても「知りたい」という欲求を持てるのだと思います。<br />
<br />
みんな、そんなにバカじゃないです。今を生きている人は、37億年とも言われる生命の歴史を勝ち抜いてきた命なのです。自分には理解できない、他者の判断の背景には、知恵の鉱脈がある（かもしれない）ということを意識する必要があります。<br />
<br />
ここまで書いてみて気が付いたのですが、これ、要するにソクラテスのいう「無知の知」ってやつですね。この世界で起こることを「意味がわからない」と切り捨てることなく、「自分は知らない」という態度を貫きたいものです。<br />
<br />
（今週末も大忙しです！）<br />
この夏の思い出<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201209/01/05/c0071305_11301317.jpg" alt="_c0071305_11301317.jpg" class="IMAGE_MID" height="334" width="500" /></center><br />
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]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>社会的に大切なものが「文化」と呼ばれるとき</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nedwlt.exblog.jp/18123887/" />
    <id>http://nedwlt.exblog.jp/18123887/</id>
    <issued>2012-06-19T22:21:00+09:00</issued>
    <modified>2012-06-19T22:53:22+09:00</modified>
    <created>2012-06-19T22:21:15+09:00</created>
    <author><name>NED-WLT</name></author>
    <dc:subject>時事評論のまね</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[僕たちは、社会的に大切なものが失われようとするとき、それを「文化」と呼び、保護しようとします。それが社会にしっかり根付いていて、人々の日常であるかぎりは、そこに「文化」という言葉は使わないところに気がつくと、「文化」とは、それが失われる危機を前にしてはじめて、人々の記憶に「立ち上がってくる」ものなのだということがわかります。<br />
<br />
少なからぬ日本人にとって、SONYは特別な存在だと思います。SONYはもはやただの一企業ではなく、日本を象徴する存在と言っても言い過ぎではないでしょう。個人的にも、これまでに多くのSONY製品を購入してきたし、お金が足りず買えないときも、常にSONY製品のカッコよさにあこがれてきました。<br />
<br />
多くの日本人が「SONYに就職したい」と思ったことがあるでしょう。しかし、あこがれのSONYに就職することはとても難しく、友達の中でも、本当に優秀な人だけが選ばれてSONYの門をくぐることができるというイメージでした。実際に、僕の親友の一人は、中学1年生のころから「SONYに就職する」と周囲に宣言しつづけ、みっちり勉強し、現役で東大に入り、優れた成績で大学院に進み、SONYに入社し、今も日々SONYの夢を実現すべく邁進しています。<br />
<br />
そんなSONYの調子がおかしくなって久しいわけですが、その原因がどこにあるのかを考えることは、どこか、日本の将来を考えることと同じ意味を持っているように感じます。SONYの理念（設立趣意書）にある「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場」という言葉は、SONYのことを考えるとき、そして日本のことを考えるとき、必ず参照される「原点」としての風格と正当性を持ち合わせているように思うのです。<br />
<br />
この夏、そんなSONY創業者である井深大氏と盛田昭夫氏の、SONYを「特別な存在」に変貌させていく決断と葛藤を描いた演劇『Heavenly Bento』が、青山円形劇場にて公演されます（2012年7月4日～8日）。この演劇を生み出したのは、ドイツ・ベルリンを拠点に活躍するアーティスト集団「post theater」です。<br />
<br />
<br />
SONYが前衛的なアーティストたちによって演劇になるということは、SONYが「文化」として扱うのに十分な深みを持っているという側面のみならず、そのコアとなる価値が失われつつあることへの警鐘であるという点にも、やはり注目しなければなりません。<br />
<br />
僕は、一企業を超えるSONYの価値が何であるか今一度確認するため、そして、その価値を少しでも継承するため、この演劇を観に行きます。SONYに対して、特別な思いを持っている人であれば、SONYが演劇でどのように表現されるのか、是非とも観ておきたいところではないでしょうか。<br />
<br />
（これから、本を読みながら寝ます）<br />
石垣と苔<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201206/19/05/c0071305_22195537.jpg" alt="_c0071305_22195537.jpg" class="IMAGE_MID" height="333" width="500" /></center><br />
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]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>誰かに、複雑なことを、わかりやすく説明する必要性</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nedwlt.exblog.jp/18069530/" />
    <id>http://nedwlt.exblog.jp/18069530/</id>
    <issued>2012-06-07T08:25:00+09:00</issued>
    <modified>2012-06-07T08:27:37+09:00</modified>
    <created>2012-06-07T08:24:56+09:00</created>
    <author><name>NED-WLT</name></author>
    <dc:subject>時事評論のまね</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[僕は、ここ10年ぐらいずっと人間の学習に興味があるのですが、子育てをしていて気がついたのは、人間は「誰かに、複雑なことを、わかりやすく説明する必要性」が与えられたとき、もっとも高い学習効果を発揮する（のではないか）ということです。<br />
<br />
自分自身のことを振り返ってみても、僕はこのブログを続けることから多くのことを学んでいます。最近ではメルマガがこれに加わりました。思い出してみれば、仕事でも、難しい課題に取り組むときの企画書を作成しているときもそうです。そしてなにより、本の執筆をしているときは、本当に多くのことを学びます。<br />
<br />
ブログやメルマガは、誰でも自分の意思ではじめられます。しかし、特に子供の場合は、ブログやメルマガをはじめるというわけにもいかないでしょう。そうなると、子供の成長にとって重要なのは「誰かに、複雑なことを、わかりやすく説明する必要性」が「誰かに与えられる」というチャンスが必要というところです。<br />
<br />
そのように考えると、大人にとっては、一生懸命ブログを書く時代が終わり、RTするばかりのTwitterや、ちょっとした近況報告と「いいね！」ボタンを押すだけのSNSに関心が移行してしまうことは、学習という側面からは改悪なのかもしれないという視点も得られます。<br />
<br />
たしかに大人であれば、こうしたチャンスは「自ら取りにいく」ことが可能です。企画書を書くのに、上司からの指示を待つ必要などありませんから。でも・・・でもなんです。<br />
<br />
そもそも「誰かに、複雑なことを、わかりやすく説明する必要性」に乏しい子供時代を過ごしてしまった人は、「誰かに、複雑なことを、わかってもらう」ことの喜びを知らないし、物事を「なぜ？」と深く突き詰めて考えるスキルも全く開発されていないわけです。<br />
<br />
世界はそもそも複雑にできています。これを「わかりやすく説明する」ということは（1）物事の背景を抽象化して考えるスキルであり、（2）適切な比喩を見つけることであり、そしてなにより（3）話を聞く相手の立場を理解するということです。<br />
<br />
・・・これって、コンピューターが人間の仕事を奪う時代にあって、人間がコンピューターに勝てる数少ないポイントだったりしますよね。だから僕は今、「誰かに、複雑なことを、わかりやすく説明する必要性」を効率的に作り出す方法を考えたいと思っています。<br />
<br />
（朝のひととき、紅茶をのみながら）<br />
プロダクト<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201206/07/05/c0071305_8201744.jpg" alt="_c0071305_8201744.jpg" class="IMAGE_MID" height="332" width="500" /></center>関連記事<br />
「この変化は、優しくない。」 2011-09-25<br />
「ダブル・ループ学習と破壊的イノベーション」 2010-12-09<br />
「生き抜く力と、モビリティー（可動性）」 2011-10-31<br />
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