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時は幕末、薩摩藩の急進的な尊皇派が、当時の薩摩藩の実権を握っていた島津久光によって京都寺田屋にて粛清されるという事件(寺田屋騒動)が発生した1862年。その同年に西周(にしあまね)は津田真道らと共にオランダに来ている。彼らは、オランダのライデン大学に2年滞在し、法学を中心に広く洋学を修めた。出港地だった長崎からオランダへは、当時はおよそ7ヶ月もの航路であったという。
西は、幼少の頃より大変な勉強家として知られていた。初めは藩校の中心であった儒教や朱子学を修めたものの、学問が進むにつれて、当時は「異端の学問」とも言われた、より実用的な知識を重視する徂徠学へと傾倒していく。1853年にペリーの黒船を見た西は、日本の遅れを実感し洋学に目覚めてゆく。黒船を見たときの西の感想をネットで見つけたので、以下に引用する。 喉元に突きつけられた凶器ともいうべき、黒船の大砲に無謀に立ち向かうことではなく、また大砲という物資を購入すれば、こと足れりというものでもなく、むしろ大砲を造り、それを用いている人間と、それらの人々によって成り立っている社会制度、即ち西洋の「文物制度」を学び、その長所を日本人に知らしめることが急務である。この確かなる時代を見る目。洋学への情熱、そしてそれを支える愛国心を持ってして、西は脱藩を願い出る。脱藩というと、通常は維新の志士達のことばかりが思い浮かべられるが、学者として脱藩した西の内面には、時流に飲み込まれる形で勇ましく剣を握り、仲間と群れて山を越えた若者にはきっと希薄だった、静かだが揺るぎの無い、「日本人」としての自我があった。 西はオランダにあって洋学を鵜呑みにしてきた訳ではない。西らは、後にオランダの大蔵大臣となったライデン大学のフィッセリング教授に講義を受けているが、このフィッセリング教授は、帰国する西に対して「熱心で親切な生徒であるばかりでなく、むしろ友人と思っているので名残おしく思う」という言葉を残している。彼には、当時のオランダの、最高の知識人をして友と呼ばせるほどの力があった。 坂本龍馬や福沢諭吉らに多大な影響を与えた有名な『万国公法』が、このフィッセリング教授の著作であり、オランダより帰国した西らによって翻訳されたということは、あまり歴史の表には出てこない。帰国後の西は、最後の将軍、徳川慶喜の政務顧問を担っていた。西は、慶喜が歴史的大事件である大政奉還を申し出る1867年11月9日の前夜も、慶喜に大政奉還以降の政治体制のあり方に関するレポートを提出している。西は、明治政府の基本方針となった「五箇条の御誓文」の草稿を執筆した人物だとも言われている。 ムリヤリ西洋的なものを取り入れようとする明治維新後の体制を痛切に批判していたのは、維新後も明治政府官僚、貴族院議員として活躍した西だった。彼は表面的な理解だけで西洋議会制度を導入することに警鐘を鳴らし、なんとかオランダで学んだ西洋の本質を、当時の日本の実情に合わせて改良しようと戦っていた。そのとき、彼の目には慣れ親しんだ日本の風景とはあまりに異なるライデンの風景が見えていたに違いない。この風景の違いを経験として知らない人々によって、無邪気にも推進されてゆくコピー的な西洋化の危険性を、西は誰よりも強く認識していたと思う。 彼がいかに深く西洋の強みを理解しつつ、啓蒙家としてそれを日本に浸透させて行くことに成功したのかということは、彼が日本に残した多くの訳語からも十分に感じられる。今でこそ日本語として馴染みが深い言葉となった「哲学」「心理学」「科学」「芸術」「概念」「抽象」「主観」「客観」「帰納」「演繹」「理性」「知覚」「感覚」「総合」といった言葉を、ヨーロッパ言語から日本語に訳し広めたのは、西の功績である。西により訳語が作られる以前の日本には、これらと同じ意味を持つ言葉が無かったという事実は、過小評価されるべきではない。それは、日本人の意識にとって革命的な「発見」であったはずだ。 徳川政権から明治政府への、眩暈がするほどの大変化の舵を取っていたのは、派手な立ち振る舞いで後の人気を惹きつけた維新の志士達ではなく、案外、あのライデンの風景だったのかもしれない。
by NED-WLT
| 2007-01-12 05:11
| 日蘭交差点
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